室町幕府の権威回復を一身に背負う!威風堂々たる若き緑髪将軍・足利義尚の悲劇的な人生【前編】:3ページ目
六角高頼征討のため大軍を集める
正式に将軍職に就いたにもかかわらず、父・足利義政がなおも権力を握り続けることに、若き足利義尚は不満を抱き、激しく反発しました。その反発はやがて、二度にわたり自ら髷(まげ)を切り落とそうとしたり、重臣の屋敷に引きこもったりといった奇行に発展し、生母・日野富子を大いに心配させました。
こうした義尚の態度に対し、さすがの義政も次第に将軍としての権限を譲るようになります。しかし、東山殿の造営などで多額の資金を必要としていた義政は、全権を手放すことなく、さまざまな形で義尚の政治に干渉し続けました。
このような状況に対し、義尚はついに大胆な行動に出ます。それが、近江の守護大名・六角高頼に対する追討の宣言でした。この頃、高頼は近江国内の室町将軍家直臣の所領を不法に奪い、彼らを経済的な困窮に追い込んでいたのです。
将軍とは、すべての武家の頂点に立ち、武士たちの本領を守る存在です。ましてや、将軍家直参の家臣が危機に瀕している状況を放置することは許されません。義尚はこうした使命感のもと、六角高頼の追討を決意しました。
しかし当時の慣例では、将軍自らが家臣の所領安堵のために出馬する必要はありませんでした。では、なぜ義尚は自ら先陣に立つ決断をしたのでしょうか。その背景には、父・義政に対する二つの意図があったと考えられます。
一つは、将軍家直参家臣の所領を守る戦いを自ら指揮することで、義政派に属する幕府家臣団を自分の側へ引き込むため。
もう一つは、京都を離れることで義政の政治的干渉を避け、近江の陣営において独自の親政を行うためでした。
義尚の号令に応じ、細川政元をはじめ、斯波・畠山の三管領、山名・一色・京極・大内・赤松・土岐といった全国の有力守護大名たちが兵を率いて義尚のもとに参陣。その兵数は万余に及んだと伝えられています。
そして、1487年(長享元年)9月12日、義尚は諸大名を従えて京都を出陣しました。将軍自らが親征を行うのは、1391年(明徳2年)、明徳の乱における第3代将軍・足利義満以来、実に約100年ぶりのことでした。
義満は、室町幕府の最盛期を築き、中国の明からは「日本国王」と称され、天皇家の権威すら凌駕した将軍として知られています。一方、義尚もまた、応仁の乱を経た後にもかかわらず、多くの守護大名を動員することに成功しました。
こうした事実は、この若き将軍に対する諸大名の期待と憧憬の念がいかに大きかったかを示していると言えるでしょう。
では【前編】はここまでとしましょう。【後編】では、近江の陣営において親政を行う義尚を襲った悲劇についてお話ししましょう。
【後編】の記事はこちら↓
イケメンすぎる若き将軍・足利義尚!室町幕府の権威回復を一身に背負った悲劇的な人生…【後編】
※山田康弘著 『足利将軍たちの戦国乱世』中央公論新書刊




