
南北朝時代の「南朝」はただの亡命政権ではなかった!その実態と北朝との共存関係が明らかに【後編】
共存から合体へ
【前編】では、南北朝時代の南朝方が、権威を失った亡命政権では決してなく、一定の権威を保ちながら北朝とも共存関係にあったことを解説しました。
南北朝時代の「南朝」はただの亡命政権ではなかった!その実態と北朝との共存関係が明らかに【前編】
「南朝」の実態今回は、漫画・アニメ『逃げ上手の若君』でも描かれている、南北朝時代の「南朝」の実像について前編・後編に分けて解説します。後醍醐天皇が始めた建武の新政は、内部対立により2年余り…
【後編】ではこの共存関係や両者が合体に至るまでの経緯を深堀りし、その後の動向についても見ていきます。
幕府にとって南朝は常に「抵抗勢力の旗印」となり得るやっかいな存在だったものの、時に一定の軍事的打撃を与えるだけで、決して武力で葬り去ることはしませんでした。
それどころかたびたび和議を持ちかけており、ようやく1392年に足利義満のもとで南北合体が実現したのです。
たとえ武力で南朝を滅ぼしても、いずれ残党が決起する恐れがあります。反幕府の大義名分が成立する余地を残さないためには、あくまで平和的に南朝と合体する必要があったのでしょう。
南北の合体により、皇位のしるしである三種の神器は、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に譲渡されました。
この結果、南朝は、自らが正統だったという体面を一応は保つことができましたが、結果的には北朝に吸収され朝廷としての実体を失います。北朝と幕府は、名を捨てて実を取ったと言えるでしょう。