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南北朝時代の「南朝」はただの亡命政権ではなかった!その実態と北朝との共存関係が明らかに【後編】

南北朝時代の「南朝」はただの亡命政権ではなかった!その実態と北朝との共存関係が明らかに【後編】:2ページ目

血生臭い「その後」

さて最後に、その後の南北朝の動向についても見ていきましょう。

南北朝合体の際、皇位は北朝と南朝が交互に継ぐとされましたが、この合意は守られず、北朝だけの継承が続きました。旧南朝の君臣は、皇位回復を求めて蜂起を繰り返しています。

しかも1410~16年には後亀山上皇が再び吉野に潜伏。1428年には伊勢(三重県)の国司・北畠満雅が後亀山の孫・小倉宮を奉じて挙兵しました。これに対して幕府は満雅を討ち、続けて小倉宮たち多くの旧南朝皇族を出家させています。

皇位の望みを絶たれた南朝遺臣は1443年、内裏から神器を強奪して比叡山に立て籠もります。

幕府はこれを朝敵として討伐し、反乱軍が担いだ後村上天皇の曾孫(通蔵主、金蔵主)も殺害されました

残党が神器とともに吉野の川上にかくまった別の南朝皇族(一宮、二宮)も1457年に討たれ、翌年に神器も取り戻されています。

その後は応仁の乱(1467~77年)の最中に、西軍が小倉宮の子孫を「南帝」として迎えた記録がありますが、これは一時的なものに終わりました。

朝廷としての実体も権威も失っていた以上、もはや大勢に影響を与えることはなかったようです。

しかし、南北朝が合体したにもかかわらず事態は相変わらず血生臭く、応仁の乱から戦国時代へと続く混乱の火種は、こうした形でずっと燻っていたと言えるでしょう。

3ページ目 祀られる南朝皇族

 

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