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南北朝時代の「南朝」はただの亡命政権ではなかった!その実態と北朝との共存関係が明らかに【前編】

南北朝時代の「南朝」はただの亡命政権ではなかった!その実態と北朝との共存関係が明らかに【前編】

「南朝」の実態

今回は、漫画・アニメ『逃げ上手の若君』でも描かれている、南北朝時代の「南朝」の実像について前編・後編に分けて解説します。

後醍醐天皇が始めた建武の新政は、内部対立により2年余りで挫折しています。

新たな幕府樹立を目指す足利尊氏が1336年、京を制圧して光明天皇を立てると、位を追われた後醍醐は吉野(奈良県吉野町)に逃れて自分こそ正統な天皇であると主張しました。

ここに、およそ60年にわたる南北朝時代が始まったわけです。

ところで、足利幕府と一心同体だった京都の北朝に対し、吉野の南朝は山中に潜伏した亡命政権的なイメージがありますね。

1348年に幕府の攻勢で吉野が陥落すると、その後は各地を転々としています。史料も乏しく、当時の南朝の実態は長らく謎に包まれていたと言ってもいいでしょう。

しかし近年の研究で、南朝もまた朝廷の名にふさわしい実態を持っていたことが明らかになってきています。

「歌会」の政治的意味

それが伺えるのは、例えば後醍醐の皇子・宗良親王が南朝ゆかりの和歌をまとめた『新葉和歌集』です。

この歌集には皇族のほか、摂関家をはじめとする多くの公家や僧侶が名を連ねており、政権を運営するに不足ない人材が備わっていたことが分かります。

また、1420首の和歌とそれが詠まれた状況を伝える詞書から、南朝も内裏や役所・関連寺院を構え、吉野陥落後も正月や七夕などの歌会はもちろん、主要な年中行事や儀式を継続していたようです。

古来、歌会というのは王権と密接な文化的装置でもありました。こうした歌会を開くことで、文化的に武家方を圧倒していることを示す政治的な目的もあったはずです。

2ページ目 南北朝の共存関係

 

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