南北朝時代の「南朝」はただの亡命政権ではなかった!その実態と北朝との共存関係が明らかに【前編】:2ページ目
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南北朝の共存関係
現存する天皇の命令文書(綸旨)の宛先などから、南朝を支えていたのは大和・河内・和泉・紀伊などの近畿南部の武士や寺社、そして悪党と呼ばれた体制外の勢力だったことが分かっています。
このほか、伝統的に中央政府からの自立性が強い九州も、南朝の強固な地盤となりました。
これらの軍事力は、さすがに幕府には及ばなかったものの、幕府に内紛が起こったとき、反主流派が「敵の敵は味方」として南朝を頼っていたのもまた事実です。
51年には将軍尊氏自らが弟直義に対抗するため南朝の後村上天皇に降伏。翌年にかけて北朝を廃止する形で南北合体が実現しました。一時的とはいえ、南朝の京都回復は都合4度に及びました。
南朝の本拠は、1360年代には大阪湾岸の住吉大社(大阪市)にありました。歌会が特に多く催されたのはこの時期のことです。
後村上が臨席した四天王寺金堂の上棟式に幕府が馬を献上した記録もあり、南北が一定の共存関係にあったことも伺えます。
【後編】では、南北朝の関係と、合体後の動きなどを見ていきましょう。
【後編】の記事はこちら↓
南北朝時代の「南朝」はただの亡命政権ではなかった!その実態と北朝との共存関係が明らかに【後編】
共存から合体へ【前編】では、南北朝時代の南朝方が、権威を失った亡命政権では決してなく、一定の権威を保ちながら北朝とも共存関係にあったことを解説しました。[insert_post id=24…
参考資料:中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
画像:photoAC,Wikipedia
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