日本の歴史には、多くの戦乱や反乱がありましたが、その中でも江戸時代最大の一揆とされるのが、「島原(・天草)の乱」です。
乱が発生したのは1637年のこと。幕府の禁教政策により、多くのキリスト教徒が弾圧される中、島原半島と天草地方の農民たちは重税と圧政に苦しみ、不満が頂点に達していました。そんな中、16歳の若き指導者・天草四郎時貞を旗頭に、一揆が勃発します。
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農民たちは原城に立てこもり、幕府軍と戦いましたが、最終的には12万もの大軍に包囲され、落城とともに一揆勢はほぼ全滅しました。
この乱の結末は、幕府の圧倒的な軍勢による鎮圧と、一揆勢のほぼ全滅という悲劇的なものとなりましたが、一揆勢側として反乱に参加し、唯一生き残った人物がいます。
彼の名は、山田右衛門作(やまだ えもさく)。
右衛門作は、何故生き残ることができたのでしょうか。今回は、その後の右衛門作の人生についても併せて観ていくことにしましょう。
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山田右衛門作(生没年不詳)は、江戸時代初期の南蛮絵師(洋画家)であり、幼少期にポルトガル人から西洋画法を学びました。その後、有馬直純・松倉重政・松倉勝家らに仕え、彼らの庇護のもとで活動しました。
彼の作品は、当時の日本における数少ない西洋画技法を取り入れたものであり、特に宗教的なモチーフを多く描いたとされています。右衛門作は、もともと口之津村の庄屋として暮らしていましたが、島原の乱が起こると、混乱の中で一揆勢に加わることを強いられました。
彼の妻子が人質に取られ、逃れるすべもなく、村人とともに原城に立てこもることになったのです。