実の息子を毒殺疑惑!戦国時代、“奥羽の鬼姫“の異名を持った「義姫」は本当に悪女だったのか?:2ページ目
長期間戦場に居座り和睦させた義姫
2つ目のエピソードは、天正16年(1588)の頃。
この頃は大崎氏の内紛に政宗と義光が加担した大崎合戦の最中でした。合戦では、政宗が義光や蘆名氏の侵攻を受け、危機的状況に陥りました。
その際、またしても義姫は輿に乗って戦場へ出陣。両軍に和睦を呼びかけました。
しかし、両軍ともに義姫の要望に従わずにいたので、義姫は負けじと戦場に留まり続けます。
約80日もの間戦場に留まり続けた結果、政宗と義光は義姫の要望通り和睦を受け入れました。
義姫がここまで粘ったのは、天正15年(1587)に豊臣秀吉が惣無事令を発令しており、惣無事令に違反した状態が両家ともに危険と判断したためでした。
この義姫の活躍は、秀吉に伝わっていたと義光が手紙にて伝えています。
このエピソードから、両家のために命を懸けた義姫の度胸と時勢を読み解く聡明さがあったことがうかがえます。