会議や宴会などにおいて、上座下座と言った序列にこだわるのは日本人だけなのでしょうか。
現代でもそうなのですから、とかく面子や名誉を重んじた武士たちは、そうした序列を守るのに命がけだったものと思われます。
しかし「我らが神の君」こと徳川家康は一味違い、小さなことにこだわらず、謙虚な姿勢で格の違いを見せつけました。
そこで今回は江戸幕府の公式記録『徳川実紀(東照宮御実紀附録)』より、家康が北条氏政・氏直父子と初めて対面した時のエピソードを紹介。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、どのように描かれるでしょうか。
北条氏政の軍門に降る!?
家康は以前、次女のおふう(督姫。母親は西郡局)を北条氏直に嫁がせました。
「あれから四年も経つが、いまだ婿殿(北条氏直)や御父上(北条氏政)にご挨拶しておらんのう」
そもそも北条家とは天正壬午の乱(天正10・1582年、織田信長の死によって生じた空白地帯≒武田旧領の争奪戦)で抗争を繰り広げており、その和睦条件として行った政略結婚ですから、両家はあまり友好的ではありません。
「西の豊臣にはひとまず臣従する姿勢をとったものの、東の北条とは少し関係を改善しておこうかのう」
という訳で、家康はさっそく両家の会談を打診しました。すると氏政から快諾の返事が届きます……が。
「黄瀬川を越えていただき、三島でお会いしましょう(意訳)」
これを聞いた徳川家の筆頭家老・酒井忠次が反対しました。
「おやめなされ。黄瀬川を越えなどしたら、世の人々は『徳川が北条の軍門に降った』と思いますぞ」
現代的な感覚だと、そうなの?と不思議に思うものの、しかし「我らが神の君」は忠次を諭します。
「よいか。かつて武田信玄と上杉謙信はつまらぬ意地の張り合いで15年にも及ぶ抗争を繰り広げ、それがために天下を逃してしまったのだ。もし彼らが力を合わせていたら、信長様もわしらもとうに滅ぼされておっただろう……今は冷静に天下の状況を俯瞰して、どっちが上だの下だのとつまらぬこだわりを捨てて、北条殿と力を合わせるのじゃ」
「……御意」
さすが我らが神の君。しかし、そのような度量が北条方にはあるのでしょうか。思いっきりナメ倒されないか、忠次は心配でなりませんでした。