一 我身姫ばかり二人産たるは何の用にか立ん大将ハ男子こそ大事奈れ妾あまた召て男子を設け給へとて築山殿すゝめにより勝頼が家人日向大和守が娘を呼出し三郎殿妾にせられし事
※『後風土記巻第十六』「築山殿凶悍 付 信康君猛烈の事」
【意訳】ねぇ聞いてお父様。お義母様ったら、私に「子供を二人産んだと言っても女児ばかり、それが何の役に立つんですか。武家の妻は、男児を産まねば存在価値がないのです」なんて言うんです。しかも夫に対して「こんな役たたずの嫁に遠慮することはありません。早く側室をたくさん迎えて、ポンポン男児を産ませなさい」と言い出して、勝手に側室を迎えてしまったんです。正室の私をないがしろにする暴挙、もう我慢できません!
……これは松平信康(まつだいらのぶやす)に嫁いだ五徳(ごとく)が、姑の築山殿(つきやまどの。瀬名)による嫁いびりを、父・織田信長(おだのぶなが)に訴えた書状の一節。令和現代の感覚からすれば、凄まじい男尊女卑ですね。
確かに家督を継がせる男児が欲しい事情は解ります。しかし選ぶに事欠いて、敵対している武田家臣の娘を連れてくるのはいかがなものでしょうか。
織田家から嫁いだ自分を疎んじて、武田勝頼(たけだ かつより)と誼を通じる築山殿と信康。これは謀叛に違いないと通報を受けた信長は、徳川家康(とくがわ いえやす)に対して築山殿と信康を処刑するよう圧力をかけます。
これが世にいう築山殿事件。信長に屈した家康は、天正7年(1579年)8月29日に築山殿、同年9月15日に信康をそれぞれ自刃させたのでした。
※一説には、往生際の悪い築山殿を、介錯人の野中三五郎重政(のなか さんごろうしげまさ)が斬ったとも言われます。
さて、遺された信康の娘たち(福子、国子)は母親の五徳に捨てられ(一人で織田の実家に帰ってしまいました)、祖父の家康とその側室・西郡局(にしのこおりのつぼね)に養育されたそうです。
信康の遺児はこの姉妹二人だけかと思いきや、江戸時代の系図集『系図纂要(けいずさんよう)』を見ると、男児の存在が記されていました。彼の名は万千代(まんちよ)。果たしてどのような生涯をたどったのでしょうか。