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意外?実は鉄砲(火縄銃)の導入に積極的だった武田信玄。しかし……【どうする家康】

意外?実は鉄砲(火縄銃)の導入に積極的だった武田信玄。しかし……【どうする家康】

追い詰められて挙兵した信玄、家康にまでナメられる?

せめて海があれば……そんな悲願を叶えるため、盟友であり甥でもあった今川氏真(演:溝端淳平)を裏切ってまで駿河を奪い取った信玄。

しかし時すでに遅く、西国への海路はすっかり織田信長(演:岡田准一)に押さえられていました。かくして交易ルートの開拓は頓挫、ジリ貧は解消されなかったのです。

かくして追い詰められた信玄は、京都の足利義昭(演:古田新太)が呼びかけた信長包囲網に参加。当時(少なくとも表面上は)友好関係にあった信長も裏切ってしまいました。

※これをライバルの上杉謙信(うえすぎ けんしん)は「武田は蜂の巣に手を突っ込んだ。もはや長くあるまい(意訳)」と喜んでいます。

そして行く手に立ちはだかる織田の盟友・徳川家康(演:松本潤)と三方ヶ原で戦うことになるのでした。

武田軍30,000に対して徳川8,000(+織田の援軍3,000)という圧倒的兵力差にもかかわらず、家康が野戦を挑んで来たのは武田軍が「ナメられるくらいの貧弱な装備しか持っていなかったから」ではないかとする説もあります。

対する徳川勢は鉄砲も十分にあり、これなら3倍以上の武田に勝てると思ったのでしょうか。実際には兵力差をもって武田が圧勝したものの、それ以上進む余力はなかったようです。

野田城あたりをウロウロしている内に病が悪化し、程なく世を去ってしまったのでした。

……元亀も三年に天正とあらたまる。信玄はいよゝゝ軍伍をとゝのへ。正月三河の野田の城にをし寄はげしく攻て。終に菅沼新八郎定盈城兵にかわりて城を開渡すに及て。たばかりてこれを生取しが。山家三方の人質にかへて定盈ふたゝび帰ることを得たり。この城攻の時入道鉄砲の疵を蒙り。四月十二日信濃国波合にてはかくなりぬ……

※『東照宮御実紀』巻二「信玄卒」

一説には信玄の死因は野田城で狙撃(鉄砲疵)を受けたためとも言われており、実に皮肉と言うよりありません。

終わりに

実は喉から手が出るほど鉄砲を欲しがっていたものの、貧しさゆえに揃えられなかった信玄。

その死から2年後。家督を継いだ勝頼が、長篠の合戦(天正3・1575年5月21日)でこれでもかと鉄砲の威力を見せつけられるとは、思いもよらなかったでしょう。

果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、長篠の合戦はじめ数多くの鉄砲が登場するはず。それらがどのように火を噴くのか、これからも楽しみにしています。

※参考文献:

  • 武田知弘『「桶狭間」は経済戦争だった 戦国史の謎は「経済」で解ける』青春出版社、2014年6月
  • 『甲陽軍鑑』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
 

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