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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 鬼柴田・甕割り柴田・知恵柴田…織田信長に仕えた猛将・柴田勝家のあだ名を紹介!【どうする家康】

鬼柴田・甕割り柴田・知恵柴田…織田信長に仕えた猛将・柴田勝家のあだ名を紹介!【どうする家康】:2ページ目

甕割り柴田(かめわりしばた)

次はこちら。時は元亀元年(1570年)、勝家が長光寺城(滋賀県近江八幡市)を守備していたところを、六角承禎(ろっかく じょうてい。六角義賢)に包囲されてしまいます。

勝家は将兵を叱咤してよく守り抜いていたものの、援軍はなかなか来てくれません。その内に兵粮も水も底を尽きかけていました。

このままでは飢えと渇きで全滅してしまう。覚悟を決めた勝家は、水を蓄えておいた甕をすべて叩き割って全軍に出撃を命じます。

もう後がないと覚悟した将兵らは死に物狂いで敵を撃破し、九死に一生を得たのでした。

そこで勝家は「甕割り柴田」と呼ばれ、長光寺城の山も甕割山と呼ばれるようになったのでした。

知恵柴田(ちえしばた)

時は天正3年(1575年)、越前国で勃発した一向一揆を一年ほどで鎮圧した柴田勝家。再び農民らが武装蜂起しないよう、刀狩りを実行しました。

しかし、いまだ反抗心の消えぬ領民たちは納得しません。そこで勝家は提案します。

「これより九頭竜川に舟橋をかける。その鎖として使うから、鉄として刀を供出してくれ」

九頭竜川は流れが荒く、しばしば人馬が流されていました。それが安全に渡れるようになるなら大歓迎です。

こうして越前の領民は喜んで刀を差し出し、暮らしを安んじた勝家の知恵は長く讃えられたのでした。

終わりに

秀吉とは水と油の荒武者

柴田勝家 しばた・かついえ
[吉原光夫 よしはらみつお]

織田家家臣。体は熊のように大きく、声は柱を壊すほどデカい。小心者の家康をいつも怖がらせる。お調子者で機転が利く秀吉と対照的な、めっぽう強い武骨もの。急進的な信長を全身全霊で支える。

※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより

武勇だけでなく、知恵にもすぐれていたと伝わる柴田勝家。ただしこれらのエピソードは史料的な裏づけに乏しく、後世の創作とも言われています。

それでも「勝家ならやりそうだ」という信ぴょう性があるから今日まで伝わってきたのであり、やはり武徳を兼ね備えた名将だったのでしょう。

果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」ではそんな勝家の魅力がどう描かれるのか、これからも楽しみですね!

※参考文献:

  • 桑田忠親『豊臣秀吉研究』角川書店、1975年10月
  • 『週刊新説戦乱の日本史17 賤ヶ岳の戦い 柴田勝家』小学館、2008年5月
 

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