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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 三方ヶ原合戦で壮烈な最期!酔いどれサムライ本多忠真(浪岡一喜)はいかに散っていったか【どうする家康】

三方ヶ原合戦で壮烈な最期!酔いどれサムライ本多忠真(浪岡一喜)はいかに散っていったか【どうする家康】

あの有名なエピソードは?

他にも文献はありますが、ひとまずこの辺にしておきましょう。

ところで本多忠真の最期について、道の両側に旗指物を突き立てて「これより一歩も退かぬ」と宣言したエピソードを聞いたのですが、どれにも出て来ませんでしたね。

そう思ったら、三方ヶ原よりほど近くに建立された「本多肥後守忠真の碑」案内板に、こんな記述がありました。

本多忠真は、三河の松平氏時代からの家康の家臣。
父・本多忠豊は、徳川四天王・本多忠勝(ほんだただかつ)の祖父。
本多忠真は、子の本多菊丸に「主君家康を護るように」と言い残し、道の両側に旗指物を突き刺して「ここから後へは一歩も退かぬ」と、家康を追走する武田軍の中に刀一本で斬り込んで討ち死に。
享年39。
浜松城に無事退却した菊丸は、父の遺骸を三河に葬った後、出家しています。

(後略)

※犀ヶ崖資料館「本多肥後守忠真の碑」案内板より(静岡県浜松市中区鹿谷町25-10地先)

土地の伝承でもあるのでしょうか?その出典を突き止めるべく、更に調査したいと思います。

本多忠真の子孫たち

ちなみに『寛政重脩諸家譜』によると忠真には一人娘がおり(案内板の菊丸は記載なし)、家臣の阿佐美金七郎(あさみ きんしちろう)に嫁ぎました。

女子
家臣阿佐美金七郎某が妻。

※『寛政重脩諸家譜』巻第六百八十一 藤原氏(兼通流)本多

阿佐美金七郎は永禄3年(1560年)5月の桶狭間合戦で丸根砦の攻略に参陣。『松平記』によれば三河一向一揆で家康に弓ひいたそうです。

その後の動向は不明ですが、文中の「家臣」は一揆の鎮圧後、多くの者たち同様に帰参して本多家に仕えた可能性も考えられます。

もしかしたら、忠真の血脈が細々でも後世に受け継がれた可能性があるかも知れません。

果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では本多忠真がどのような最期で戦場を彩ったのか、浪岡一喜の熱演に期待ですね!

※参考文献:

  • 『改正三河後風土記 上』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『寛政重脩諸家譜 第四輯』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『日本戦史材料 第二巻 三河物語』国立国会図書館デジタルコレクション
 

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