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三方ヶ原合戦で壮烈な最期!酔いどれサムライ本多忠真(浪岡一喜)はいかに散っていったか【どうする家康】:2ページ目
迫りくる武田軍を相手に大暴れ
まずは江戸幕府の公式記録である『徳川実紀(東照宮御実紀)』と同附録を読んだのですが、三方ヶ原の合戦の場面に本多忠真は登場しませんでした。
それでは概ね同時代を生きていた徳川家臣・大久保彦左衛門(おおくぼ ひこざゑもん。大久保忠世の弟、大久保忠教)の書いた軍記物語『三河物語』はどうでしょうか。
……御手前之衆尓ハ。青木又四郎殿(青木貞治)。中根平左衛門(中根正照)斗。物主ハ打死仕候。其外若き衆家老共ハ鳥居四郎左衛門(鳥居忠広)。本多ひ後守(本多忠真)。賀藤◆ねの丞(加藤利正)。同九郎次郎(加藤正信)。ゑのきづ小太夫(米津政信)。大久保新蔵(大久保忠寄)。河井やつと兵へ(詳細不明)。杉之原ナつと兵へ(詳細不明)。榊原摂津守(榊原忠直)。成瀬藤蔵(成瀬正義)。石河半三郎(数正一族?)。夏目次郎左衛門(夏目広次)。河井又五郎(詳細不明)。松山久内(詳細不明)。賀藤源四郎(加藤景継)。松平彌右衛門(詳細不明)殿。何◆も此外尓。此とおり之衆。数多候へ共志る寸尓不及……。
※『三河物語』第三下
【意訳】味方の討死は、青木貞治(あおき さだはる)・中根正照(なかね まさてる)。ほか以下のとおり。
- 鳥居忠広(とりい ただひろ。鳥居元忠の弟)
- 本多忠真(肥後守)
- 加藤利正(かとう としまさ)
- 加藤正信(まさのぶ)
- 米津政信(よねきづ まさのぶ)
- 大久保忠寄(おおくぼ ただより。大久保忠世の弟)
- 河井やつと兵衛(かわい やっとべゑ?)←八郎兵衛か?
- 杉之原ナつと兵衛(すぎのはら なっとべゑ?)←十郎兵衛か?
- 榊原忠直(さかきばら ただなお)
- 成瀬正義(なるせ まさよし)
- 石河半三郎(いしかわ はんざぶろう。石川数正の一族?)
※数正の子に同じ通称を用いた者がいるが、年代が合わない。別人と思われる。 - 夏目広次(演:甲本雅裕)
- 河井又五郎(かわい またごろう。前出の河井やつと兵衛と同族?)
- 松山久内(まつやま くない/きゅうない)
- 加藤景継(かげつぐ。加藤利正の子で加藤正信の弟)
- 松平彌右衛門(まつだいら やゑもん。詳細不明。家康の一族か遠戚か)
この他にもたくさんいるが、記しきれない。
……ここでもただ「本多ひ後守」と、数いる討死者の一人としてリストアップされているだけでした。ちょっと寂しいですね。
もうちょっと頑張りましょう。史料的な信ぴょう性は『三河物語』よりも低くなってしまいますが、『改正三河後風土記』に期待をかけます。
……本多肥後守忠真後殿して引取けるが武田勢大勢にして烈しく追かくれバ忠真度々返し合せて終に討死す……
※『改正三河後風土記』「三方原大戦の事」
敗軍の後殿(しんがり。殿軍)を引き受けて武田の大軍を食い止めて奮戦した忠真。しかし武勇もむなしく討死してしまったということです。
いい感じですが、もうちょっと具体的な戦いぶりが知りたいですね。ということで、次は『寛政重脩諸家譜』を見てみましょう。
……元亀三年十二月二十二日三方原の役に、吾軍利あらずしてすでに御馬をかへしたまふに及びて忠真後殿となり、反り撃ことしばしばにして従者等おほくうち死し、忠真もみづから鎗を執て敵兵六七人を殺すといへどもいよいよ逼り来るにより、鎗を捨刀をもつてまた三人を斬てすて、終に敵中に入て戦死す。法名慶花。三河国大樹寺に葬る。
※『寛政重脩諸家譜』巻第六百八十一 藤原氏(兼通流)本多
鎗を奮って敵兵を6、7人(67人と盛りたいところですが、ここは現実的な数字に。これでも十分に強いです)を倒した忠真。
やがて武田の大軍に押し囲まれると槍を捨てて抜刀、さらに3人を斬った後に力尽きたということです。
周りがすべて敵ならば、当たるを幸い大暴れ。精強で名高い三河武士の面目を、大いに施したのでした。
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