「男色」は武士のたしなみ!?徳川家康が寵愛した美少年・井伊直政との絆【前編】
日本の性文化を語る上で欠かせないのが「男色」といわれる男性同士の性愛。特に、有名なのが戦国時代から江戸時代にかけての武士の男色「衆道」です。
「衆道」は、男色の中でも「大名と寵童」「武士同士の義兄弟関係」を指します。
戦国武将が見目麗しい家臣を寵愛していた話は、足利義満・織田信長・武田信玄・徳川家光などが有名で、性愛目的のみならず、固いきずなを交わしたり信頼関係を結んだりする目的もあったようです。
そこで、今回は大河ドラマで注目されている「徳川家康」と、家康が寵愛した家臣「井伊直政」との衆道事情について追ってみたいと思います。
「徳川四天王」と呼ばれた井伊直政
「徳川四天王」とは、戦国の混沌とした世の中を太平へと導き江戸幕府を開設した初代将軍・徳川家康に仕え、ともに江戸幕府作りに貢献した、酒井忠次・榊原康政・本多忠勝・井伊直弼の4名の武将のことです。
中でも「井伊直政(なおまさ)」は、四天王のうち最年少。戦場では全身の武装を赤で揃えて非常に目立っていたため「井伊の赤鬼」と恐れられ、その働きぶりから「家康一番の腹心」といわれていました。
井伊直政は「絶世の美少年」としても有名で、「容顔美麗にて、心優にやさしき」と記録が残っているほどです。
14歳になり徳川家康に出仕
井伊直政は、1561年(永禄4年)、遠江国祝田(とおとうみのくにほうだ/現在の静岡県浜松市北区)にて、今川氏の家臣であった父「井伊直親(なおちか)」の嫡男として誕生しました。幼少期の名前は「虎松」。
虎松が1歳になった頃、父・直親は松平元康(のちの徳川家康)との内通嫌疑で、今川氏12代当主「今川氏真」(いまがわうじざね)により謀殺されてしまいます。虎松の養母であった「井伊直虎(なおとら)」は、女城主として奮闘するも井伊家は滅亡。
虎松は、三河国(愛知県新城市)にある「鳳来寺」に預けられ14歳まで過ごすことになったのです。
そして、14歳になった1575年(天正3年)、直虎は直政を徳川家康に出仕させることにしました。