慈円は本当に「中世きっての名僧」なのか?その生涯から名場面をピックアップ【鎌倉殿の13人】:3ページ目
批判はすれど、弾圧はせず
ただ念仏を唱えるだけで救済される。貧しい民にとって、苦しい現世を生き抜く知恵として広まった専修念仏(称名念仏)。
しかし当時としては異端であり、延暦寺や興福寺は念仏僧を激しく指弾しています。そして承元元年(1207年)2月27日には後鳥羽上皇(名義は土御門天皇)が念仏停止(ちょうじ。禁止)を命じました。
もちろん慈円も厳しく批判している一方、力づくの弾圧には否定的で、土佐国(現:高知県)へ流罪にされるはずだった法然(ほうねん)上人を兼実と庇護し、配流先も少し手前の讃岐国(現:香川県)に緩和されます。
恐らく慈円は、強引に弾圧すればするほど宗徒は信仰心を強めて反抗的になり、押さえつけられなくなってしまう宗教の本質・恐ろしさを知っていたのでしょう。
“I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it”
「私はあなたの意見には反対だ。しかしあなたが意見を主張する権利は命をかけて守る」
※S・G・タレンタイア『ヴォルテールの友人』
いかなる権威・権力をもってしても信仰は強制できないし、すべきではない。そんな宗教者としての矜持あふれる一幕です。
なお、慈円は法然の弟子である親鸞(しんらん)に得度を授けており、浅からぬ因縁が感じられます。