慈円は本当に「中世きっての名僧」なのか?その生涯から名場面をピックアップ【鎌倉殿の13人】:4ページ目
四条天皇を祟り殺す?
ここまで、慈円の人格者らしいエピソードを紹介してきましたが、今度は怖い話しも。
慈円が世を去って数十年後の仁治3年(1242年)1月9日、四条天皇(しじょうてんのう。第87代)がにわかに崩御されました。
原因はいたずら好きな陛下が、舎人や女房たちを転ばせようと御所の廊下に滑石をばらまいたところ、自ら転んで頭を打ったのが死因と考えられます。
当時12歳、あまりにも残念な崩御に人々は「これは亡き慈円僧正の祟りだ」と噂したのでした。
仁治三年正月二十四日。……去九日四條院俄崩御境節聊故慈鎮和尚成祟御之由……
※『門葉記』巻第三(熾盛光法三)より
【意訳】さる1月9日、四条院がにわかに崩御された。これは慈鎮(慈円)和尚が祟りをなしたゆえとのこと。
なぜ慈円が幼い四条天皇に恨みを……と思ってしまいます。これはかつて承久の乱(承久3・1221年)に敗れた際、在位していた仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう。第85代)が廃されたことが原因です。
「幼き当今(とうぎん。現在の天皇陛下。当時4歳)に罪はございませぬ、どうかご再考を!」
仲恭天皇の母・九条立子(りっし/たつこ)は兼実の孫であり、九条家の血統を受け継ぐ幼帝を守りたかったのですが、懇願も空しく即位からわずか78日(5月13日~7月29日。歴代最短)で退位させられてしまいました。
代わりに即位したのは別系統の後堀河天皇(ごほりかわてんのう。第86代)。髙倉天皇(たかくらてんのう。第80代)の皇孫に当たります。
「おのれ……この怨み、晴らさでおくべきか!」
慈円の怨みは自身の死後、次代の四条天皇に祟ったという……噂。あくまでも噂ですが、当時の人々は「慈円ならそのくらい怨むだろうし、祟り殺すくらいの法力は持っていただろう」と思っていたのでしょう。
終わりに
おほけなく うきよのたみに おほふかな
わがたつそまに すみぞめのそで※「小倉百人一首」第95番 前大僧正慈円
【意訳】おこがましくも、世の人々を抱きしめて≒救ってあげたい。比叡山(の頂上)に立つ私の、墨染の袖で。
天台座主として、苦しむ衆生を救おうとする壮大な心意気が詠まれた慈円の歌。あふれる慈愛と才覚が満ち満ちていますね。
些末なことにとらわれない度量と世を見据える慧眼、異端の者にも貫いた公正さ、そして方向性はともかく強い法力。じっさい慈円が「中世きってか」はともかく、名僧の一人であったことは確かなようです。
大河ドラマも残り数回、慈円の名僧ぶりがどのように演じられるのか、最後まで見届けていきましょう。
※参考文献:
- 佐藤春夫 訳『現代語訳 徒然草』河出文庫、2004年4月
- 高楠順次 編『大正新脩大藏經図像』大正新脩大藏經刊行會、1977年11月
- 丸山二郎 校訂『愚管抄』岩波文庫、1949年11月
トップ画像:「鎌倉殿の13人」公式サイトより