慈円は本当に「中世きっての名僧」なのか?その生涯から名場面をピックアップ【鎌倉殿の13人】:2ページ目
身分にこだわらず才ある者を愛する度量
……慈鎮和尚、一芸ある者をば、下部までも召めし置きて、不便にせさせ給ひければ、この信濃の入道を扶持し給ひけり。
この行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教へて語らせけり……
※『徒然草』第二百二十六段
【意訳】慈円(慈鎮和尚)は一芸にひいでた者は身分が低くても分け隔てなく可愛がったので、この信濃入道(信濃前司行長)を召し抱えたという。
この行長、以前に学問で失敗したことを恥じて出家遁世していたところ、才能を惜しんだ慈円に取り立てられました。
やがて行長は『平家物語』を作って盲目の琵琶法師に語らせたと言います(諸説あり)。身分や過去にとらわれない慈円の慧眼が、功を奏したのかも知れませんね。
「武士の世」の幕開けを記す
平安末期から公家たちの威勢が衰え、武士たちが台頭。やがて頼朝の鎌倉開府によって「武士の世」が開かれた……と言うのが一般的な見解。
しかし慈円はそれに先立つ幕開けを『愚管抄』に記していました。
……保元々年七月二日鳥羽院ウセサセ給ヒテ後。日本國ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後。ムサノ世ニナリニケル也ケリ。コノ次第ノコトハリヲコレハセンニ思テ書置侍ルナリ……
※『愚管抄』第四巻より
【意訳】保元元年(1156年)7月2日に鳥羽院が崩御され、日本国中に反乱が起こった。以来、武者(むさ)の世になった。このことは特筆すべきと思い書き残しておく。
いわゆる保元の乱。後白河天皇(演:西田敏行。当時在位中)と崇徳上皇(すとくじょうこう)の権力争いに武士たちが投入されたことにより、その存在感と影響力が高まりました。
続く平治の乱(平治元~永暦元・1160年)も続けて制した平清盛(演:松平健)が権勢を極め、すっかり天下は「武者の世」に。
「この次第の理(ことわり)を、これは詮(せん。ここでは歴史的なしるし・記念)に思いて書置きはべるなり」
慈円の読みは、見事に的中したと言えるでしょう。