実は子だくさん!汚れ役もいとわない愚直すぎる武将・梶原景時の息子たち・前編【鎌倉殿の13人】:4ページ目
ちょっとチャラ男?でもここ一番で決めてくれる三男・梶原景茂
仁安2年(1167年)生まれ、通称は三郎。平次の次だから平三(へいざ、へいぞう)じゃないのかと思うのですが、父・景時が平三なので被らないようにしたのでしょう。
頼朝挙兵の時点で14歳、なので石橋山の戦いが初陣だった可能性はあります。
文治2年(1186年)5月14日、鎌倉に捕らわれていた白拍子・静御前(演:石橋静河)の元へ仲間と共に押しかけ、どんちゃん騒ぎの挙げ句彼女に言い寄るという暴挙に。
静御前は愛する義経(謀叛人として逃亡中)の身を案じて針の筵、ましてや義経の子を妊娠しているため身心共に苦しい状態。
盛大にフラれてしまった景茂は、仲間たちと共に引き上げていきました。いくら謀叛人の愛妾とは言え、やって良いことと悪いことがあるというもの。
……景茂傾數盃。聊一醉。此間通艶言於靜。々頗落涙云……
【意訳】景茂は盃を傾け、少し酔い過ぎてしまった。その勢い余って静御前を口説いた(艶言を通じた)ものの、彼女に泣かれてしまったのであった。
※『吾妻鏡』文治2年(1186年)5月14日条
まずは気の利いた歌でも送ることから始めればよかったのに……まぁ気を取り直して。
景茂は奥州合戦で武功を立てたことにより、建久元年(1190年)に左兵衛尉(さひょうゑのじょう)となりました。これは頼朝の推挙によるものですから、兄たちのように叱られはしません。
次兄・景高にもまして失態のインパクトが強い景茂。しかし後に弾劾を受けて鎌倉を退去した景時が、万一に備えて鎌倉の留守を任せたのも彼でした(正治元・1199年11月13日条)。
御家人たちからの弾劾状に恐れをなしたか、さんざん利用しておきながら、景時の梯子を外してしまった頼家。
「お前の父(景時)のせいでみんな怒っているぞ。何とかしろ(意訳)」
これに対して、景茂はしっかりと反論します。
「父は亡き大殿(頼朝公)より人一倍の寵愛を受けたとは言え、今やそれもありません(意訳:お前は今までさんざん父を利用しておきながら、ここへきて梯子を外しやがったな)。そんな状態で、一体何の悪さができると言うのでしょうか(意訳:ぜんぶお前の指示だろうが、父に責任転嫁しやがって)。父が鎌倉を去って寒川(相模国一宮)へ下向したのは、なすすべもなく弾劾状に署名された皆様のお怒りを恐れてのことですよ(意訳:こちとら争う気はないんだから、早く仲裁せんかいボケ)」
……景茂申云。景時。先君之寵愛。殆雖越傍人。於今無其芳躅之上者。以何次可行非儀乎。而愼仲業之翰墨。軼怖諸人之弓箭云々。
※『吾妻鏡』正治元年(1199年)11月18日条
ちょっとだらしないところはあっても、はやり景時の子としてやる時はやってくれる男だったようです。
※参考文献:
- 石井進『日本の歴史 7 鎌倉幕府』中公文庫、2004年11月
- 石井進 編著『別冊歴史読本 鎌倉と北条氏』新人物往来社、1999年9月
- 本郷和人『新・中世王権論 武門の覇者の系譜』新人物往来社、2004年11月
トップ画像: NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式ページより