実は子だくさん!汚れ役もいとわない愚直すぎる武将・梶原景時の息子たち・前編【鎌倉殿の13人】:3ページ目
兄とは対照的な熱血タイプの次男・梶原景高
永万元年(1165年)生まれ、通称は平次。頼朝挙兵時点で16歳なので、父や兄に従って出陣しているものと思われます。
血気盛んな性格で、平家討伐の一ノ谷合戦(寿永3・1184年2月7日)では、抜け駆けせぬよう父からきつく窘められていたのにも関わらず単騎で抜け駆け。
もののふの とりつたへたる 梓弓 ひいては人の かえすものかは
【意訳】武士の引いた弓=放った矢が戻らないように、自分もまたここで退くわけにはいかないのです。
そう詠んで敵中へ殴り込んだ景高を放っておけず、景時らも後に従い、一度は引き上げてきました。
しかし人数を数えると景季がいない。家族愛の強い景時は必死になって再び敵中へ突入。孤軍奮闘していた景季(※目印に梅の枝を挿していたとか。美意識も高かった模様)を救出して全員無事に引き上げることが出来たのです。
これを「梶原の二度駆け」と言い、梶原一族の団結力を示すエピソードとして現代に伝わっています。
平家討伐の武功によって景高は兵衛尉(ひょうゑのじょう)に任じられましたが、こちらは兄・景季とは違って頼朝から容赦ないお怒りコメントが浴びせられます。
「惡氣色して、もとより白者(しれもの)と御覧(ごろう)ぜしに、任官誠に見苦し」
【意訳】顔色が悪い(白い)ので頭の中身も白い=バカかと前から思っていたが、やっぱりバカだったか。バカめ!
……まぁ、そんな事もありましたが、文武両道に秀でた景高は奥州合戦でも歌の才能を発揮。頼朝はじめ一同を感心させました。
陸奥(みちのく)の 勢は御方に 津久毛橋(つくもはし) 渡して懸けん 泰衡が頸(くび)
【意訳】奥州の軍勢はここ津久毛橋のように、みんな頼朝様のお味方につくことでしょう。橋を渡して架けるように、泰衡の首級もかけて(梟首にして)やりましょう。
地名や掛詞を巧みに織り交ぜて、即興で歌を詠んでしまう機転に脱帽です(景高に限ったことではないものの、日ごろからこうした事に意識が及んでいたことが分かります)。
そんな建久4年(1193年)5月16日、富士の巻狩りで頼朝の嫡男・源頼家(演:金子大地)が初めて鹿を射止める(※大河ドラマとは違い、実際にはちゃんと自力で射止めています)と、その喜びを鎌倉へ伝えに走りました。
「御台様、若君が大手柄ですぞ!」
しかし政子(演:小池栄子)は「そんなの武士の子なら当たり前でしょ。バカじゃないの?(意訳)」と一蹴され、面目を失ってしまいます。
どうもクールな兄・景季に比べると三枚目ポジションな景高。対照的な二人なので、コンビで登場させたら面白かったでしょうね。
4ページ目 ちょっとチャラ男?でもここ一番で決めてくれる三男・梶原景茂