横浜中華街はどうして生まれたの?現在の「おいしい中華街」が完成するまで:3ページ目
戦後に完成した「横浜中華街」
さらに時代が下り、1945年5月。戦争によって横浜の中華街は大ダメージを受けます。同年8月に終戦を迎えて復興が始まった時、ここでも活躍したのが華人でした。
彼らは終戦後すぐに自治組織をつくり、配給物資の取りまとめなどを行い、中華街の復興に尽力したといわれています。
料理人たちも、配給の小麦粉や砂糖を使って揚げドーナツを作り、焼け野原の上にバラックを立てて商売を始めました。
そして高度経済成長期になると、1972年の日中国交正常化によって、日本では「パンダ、ニーハオ、芽台酒(マオタイシュ)」を掛け声とした中国ブームが起こります。
その影響もあり、横浜の中華街にはさらに多くの人が訪れるようになりました。
こうして、最初は貿易に携わる華人の居住地だった横浜の中華街は少しずつ変化していき、現在の街並みへと発展したのです。
私たちが慣れ親しんだ横浜中華街にも、古くからの歴史があることが分かりましたね。
もしも足を運ぶ機会があったら、歴史の奥深さに思いを馳せてみるのもいいかも知れません。