横浜中華街はどうして生まれたの?現在の「おいしい中華街」が完成するまで:2ページ目
明治期に活躍した「三把刀」
また横浜の地形や街並みは、中国からやってきた人々に「風水」の観点から好まれたとも言われています。
こうして、横浜には多くの華人が移り住み、彼らのコミュニティとしての中華街が形成されていきました。
さまざまな国との貿易によって異国情緒溢れる街並みが形成され、さらに貿易の要である華人たちの町「中華街」が横浜にできていったのです。
しかし、この中華街が、現在のようなおいしい料理店が立ち並ぶ街並みへと変わっていくには、明治維新を待つ必要がありました。
開港から少し経ち、日本の文明開化が始まると、日本各地で外国との交流が行われるようになり、貿易業は横浜だけのものではなくなります。
すると、横浜の中華街に住む華人の仕事も、それまでのように貿易業や、貿易の仲介役だけではなくなっていきます。
当時、彼らが特に得意としていた職業には「料理人」「理髪師「仕立て屋」の3つがありました。
それぞれ包丁、剃刀、鋏を使うことから「三把刀(さんばとう)」と呼ばれていたそうです。
このうち、特に料理人は当時から大いに活躍していました。横浜は中国本土からも食材が調達しやすく、また中華料理の需要も高かったのです。