いざ奥州征伐、泰衡討つべし…梶原景時の息子たちが陣中で詠んだ名歌を紹介【鎌倉殿の13人】:2ページ目
渡して懸けん 泰衡が頸……平次景高の詠んだ陰惨な陽気さ
とは言え、さすがにまったく無抵抗だった訳ではなく、泰衡の軍勢も奥州の意地を懸けて激しく抗戦。しかし衆寡敵せず、次第に鎌倉方へ寝返り投降する者が続出します。
そんな文治5年(1189年)8月21日、津久毛橋(つくもばし。宮城県栗原市)までやって来ました。
「しっかしエラい雨風(甚雨暴風)ですな。ここは一つ景気づけに……」
という訳で、今度は平次景高が一首を披露。
陸奥(みちのく)の 勢(せい)は御方(みかた)に 津久毛橋
渡して懸けん 泰衡が頸(くび)【意訳】奥州の連中(軍勢)はみんな鎌倉殿の味方につくようで、この調子で泰衡の首級を上げ、渡し懸けて(梟首、晒し首にして)やりましょうぜ!
橋は渡し、架けるもの。それを泰衡を梟首に処する(わたす、かける)にかけています。
源太の作に比べて随分と物騒な歌ですが、これは不吉やケガレを忌み嫌う従来の和歌文化≒貴族の価値観に風穴をあける衝撃作でした。
武をもって生業とし、命のやりとりを日常としながら、陰惨な中にどこか陽気さが込められた一首。まさに新しい時代の胎動を感じさせるものです。
終わりに
この日、泰衡は平泉から逃亡。やがて家臣の裏切りによって捕らわれ、9月3日に処刑されました。
泰衡の首級は、かつて奥州で叛乱(前九年の役)を起こして源頼義(よりよし。頼朝の5代祖先)に討伐された安倍貞任(あべ さだとう)の故実に倣い、長さ八寸(約24センチ)の釘で丸太に打ちつけられたとか。
晴れて奥州を平らげ、日本国内に敵がいなくなった頼朝。梶原景時・景季・景高はその後も鎌倉殿の懐刀として活躍するのですが、そっちのエピソードも改めて紹介したいところです。
果たして「鎌倉殿の13人」では平次景高が登場するのか、そもそもこの和歌エピソードに言及されるのか、今から楽しみにしています。
※参考文献:
- 菊池威雄『鎌倉武士の和歌 雅のシルエットと鮮烈な魂』新典社、2021年10月