啼くよウグイス平安京…実は遷都当初から完成形じゃなかった!?その理由とは
啼くよ(794・延暦13年)ウグイス平安京(へいあんきょう)……が遷都された年号について、そんな語呂合わせで覚えた記憶があります。
中国大陸の洛陽や長安に倣って街路が縦横まっすぐに巡らされ、美しく整備された様子は「万代(よろずよ)の宮」と謳われるにふさわしい威容を示しました……が。
この平安京、実は現代伝わっている図面や復元模型どおりには造られていなかったと言います。
一体、どういう事なのでしょうか。
遷都の当初から廃れがちだった「卑湿の地」
平安京のデザインは『九条家本延喜式附図(左京図、右京図)』等によって現代に伝わっています。
しかしそれはあくまで設計図というか理想図であり、予算などの関係からその通りに完成した訳ではないとのこと。
特に右京(御所から見て右側=中央を走る朱雀大路より西側)地区については、そのすぐ西側を走っている桂川や紙屋川(天神川)の氾濫水域。
かねて「卑湿の地(弘仁10・819年11月5日、太政官符)」などと呼ばれており、もし実際に都市を造っていたところで、しばしば破壊されてしまったことでしょう。
実際に発掘調査でも右京の朱雀大路より西、二条大路より南(要するに右京地区のほとんど)では路面や側溝が発見されておらず、そこまで整備の手が回らなかった当時の状況が偲ばれます。
そのため右京地域については遷都から間もなく廃れがちに。右京を「長安」左京を「洛陽」とオシャレに呼んでいたため、やがて残る「洛陽」が平安京≒京都の別名となりました。
ちなみに京都へ行くことを上洛(じょうらく)と言うのは、この「洛陽(左京)へ上がる」ことに由来します。
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