一族が粛清される酷すぎる仕打ち…戦国の世に散った武将・井上元兼の生涯
さまざまな合戦、裏切り、人間ドラマ……。
日本の歴史において常に話題にはことかかない戦国時代ですが、なかには一族が粛清されるというあまりにもむごい仕打ちを受けた人々も。
今回は、そんな運命をたどった戦国武将である「井上元兼(いのうえもとかね)」について詳しくご紹介したいと思います。
今回の舞台・戦国時代の中国地方と毛利家
今回の記事の舞台となるのは、戦国時代の中国地方。戦国の世には個性的な人物がたくさんいましたが、中国地方の覇者であった毛利元就(もうりもとなり)もそのなかの一人ではないでしょうか。
今でこそ名の知れた武将ですが、元々は小さな国衆の一つでした。そのため、初期に元就の家臣となったのはたったの20人。
そのうちの一人が今回の主役・井上元兼(いのうえもとかね)なのです。
井上元兼(いのうえもとかね)の活躍
井上元兼は、文明18年(1486年)に国人・井上河内守光兼(かわちのかみ みつかね)の子どもとして生まれました。
もともと井上家は毛利家と対等関係にある存在でしたが、縁戚関係を経て、多くが毛利弘元の家臣団に組み込まれて仕えるようになりました。
とはいえ井上家は経済状況がよく、毛利家を財政面で支えました。また、毛利元就が父・弘元から家督相続を要請したときには、井上一族の他の人々とともに署名し、大きく貢献しました。
また、彼の息子らが元服の際には、就兼と就澄と、「就」の一字を与えられており、このことからも大きな信頼を得ていたことがわかります。
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