「大和」という言葉の使用は七世紀からで、それまでは存在しなかった? 〜ヤマト政権のアイデンティティ

湯本泰隆

かつて、現在の奈良県を中心とした地域と大阪府東部・南西部にあたる河内地方を支配した豪族達の連合政権。この政権は「大王(オオキミ)」と呼ばれる首長を盟主とし、4世紀頃に成立。4世紀中頃には西日本を統一し、その後東日本にも勢力を拡大して7世紀中頃には律令国家として発展していきました。

これら一連の古代政権について、一昔前の歴史の教科書には「大和政権」、現在の教科書には「ヤマト政権」と表記されています。

以前はこの政権を「大和朝廷」と呼んでいたこともありました。ところが、「朝廷」と呼べるのは国家機能が整った統一政権のみという考え方が主流になってきた昨今、律令国家となった645(大化元)年の「大化の改新」を境として、それ以前を「政権」、以降を「朝廷」として区別する呼び方が浸透してきています。

教科書や書籍などの「やまと」の表記が以前の「大和」から現在の「ヤマト」に変更されたのは、7世紀以前の文献や金石文、木簡などに「大和」という漢字表記が一切見られないことが大きな理由となっています。

7世紀以前の日本は、「倭」「大倭」「大養徳」などと表記されていました。それを「やまと」と読ませることもあり、特に定まったものはなかったようです。そこで、7世紀以前の不定形だったものと区別するためにも7世紀以前の政権を示す場合は漢字表記ではなく、音を表すカタカナ表記が適切と考えられたようです。

2ページ目 「大和」という表記の普及、そして「日本」へ

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了