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戦国時代、嫉妬で毒殺されてしまった李氏朝鮮の名医・経東の悲劇

戦国時代、嫉妬で毒殺されてしまった李氏朝鮮の名医・経東の悲劇

戦国時代、天下を統一した豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)はその野心を大陸へと顕わし、ついには朝鮮半島へと兵を興した文禄・慶長の役(朝鮮出兵)

多くの人が海を渡って戦い、異郷の地に果て、また海を渡り帰って来ましたが、その中には日本へ連れて来られた朝鮮人もいました。

今回はそんな一人、経東(けい とう/キン トン)のエピソードを紹介したいと思います。

朝鮮の名医、日本の風土に悩まされる

(前略)爰に經東とて、其頃朝鮮に隠れなき名醫も捕はれて、土佐國へ來りけるが、始め一年程は病を治すれども、些かも効なく、人を殺す事甚多し、國人共、異國にも斯る盲醫もありけるよと、上下男女笑ひければ、經東大きに恥ぢ且患ひて、暫く籠居して、明暮是を案じけるが、或時朝鮮・日本土地同じからず。人も又異なる事を悟りて、其後は一度も藥劑を誤る事なく、終に其名高くなりけるとぞ……(後略)

※『土佐物語』巻第十七「中歸朝の事 附 名醫經東が事」より

経東の生年や出自は不詳、ただ李氏朝鮮において名医であったと伝わっています。

それが日本へやって来たのは文禄3年(1594年)、いわゆる朝鮮出兵(文禄の役)において長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)に生け捕られ、同胞380余名と共に土佐国(現:高知県)へと連行されてきました。

「しかし連れて来たのはよいが、慣れぬ土地でバラバラに暮らすのは心細かろう」

という元親なりの配慮によって、現代の唐人町(現:高知市唐人畑、後に同市唐人町へ移転)が作られたと言います。

故郷から遠く引き離されたとは言え、いつまでも悲しんでいたところで始まらぬと医業を再開した経東でしたが、最初の一年ほどは日本人の診立てが上手くいかず、人々は「異国にも かかる盲医も ありけるよ(五七五)」などと笑われたそうです。

日本と朝鮮では風土が大きく異なり、そこで生きる人々の体質も違っていたことから誤診が相次いでしまったのでした。

「やはり身土不二(しんどふに。人間の身体は生きる土地と不可分の影響を受ける)とはよく言ったものだなぁ……」

実際、朝鮮同胞の診立てについては以前と変わらず上手く行っていたのでその確信をもてた経東は、日本の風土と日本人の体質についてよく研究し、ほどなく名誉を挽回したそうです。

海を隔てているとは言え、お隣の国と思っていても、日本と朝鮮ではそんなに違うのですね。現代でも、そうなのでしょうか。

同業者から妬まれ、鴆毒を盛られる

「先生、いつもありがとうございます」

「今度はウチの子供も診てやって下さいよ」

すっかり土佐国にも馴染んで人々の信頼と名声を勝ち取った経東でしたが、好事魔多しとはよく言ったもの、経東の成功を妬んだ同業者たちが、彼を亡きものにしようと企みます。

「ご高名はかねがね伺っております。時に、朝鮮の先進的医学について先生にご指導いただきたいのですが……」

土佐の医師たちは上洛していた経東を京都伏見で接待し、そこで鴆(ちん)毒入りの料理を勧めました。

「……うっ!」

体調の異変に気づいた経東は、症状などから盛られたのが鴆毒と気づきます。

「こんな事もあろうかと……」

解毒剤を用意していた経東でしたが、服用しようとして考え直しました。

「いや、たとえ毒の難を逃れたところで、剣難は逃れられぬ」

何が何でも殺すつもりでしょうから、逃げ回った挙げ句なぶり殺しにされるくらいなら、いっそこの場で潔く死のうと覚悟します。

「そうとなれば、最早これに用はない」

医師たちに教えてやろうと持参していた医術書を懐中より取り出すと、中庭に出て火をつけました。

「万民の命を救う医術を伝授しようと思ったが、こんな仕打ちを受けたのだから、日本人に教えてなんかやるまいぞ」

こうして医術の秘伝書をすっかり焼き捨てると、間もなく鴆毒が回って息絶えたということです。

エピローグ

(前略)是程の毒をば、忽解する事はいと易し、されども今死せずんば、必刀刃の難遁るべからず、しかじ今死なんにはとて、懐中より四寸四方計りの一つの書籍を取出し、是萬民を救ふの書なりといへども、日本人に傳ふるは遺恨なりとて、火の中へ投入れ燒捨てゝ、其身も程なく死したりけり……(後略)

※『土佐物語』巻第十七「中歸朝の事 附 名醫經東が事」より

その後、長宗我部元親は病床に臥して慶長4年(1599年)に亡くなりますが、どんな名医の良薬も効果がなく

「あぁ、経東さえいてくれれば助かったかも知れないのに、邪な妬みによって天下の宝を失ってしまった……」

と後悔したと言われます。

(前略)あはれ親炙して是を学ばは、いかに醫工を和朝に傳へ殘すべきものを、邪なる妬故、無法の死を與へて、天下の寶を失ひけるこそうたてけれ。

※『土佐物語』巻第十七「中歸朝の事 附 名醫經東が事」より

自分は殺されても、自分が遺した医術で人々を救って欲しい……そういう価値観もあるでしょうが、自分を毒殺した日本人たちのためなんかに、医術を遺してなどやるものか……そんな気持ちも、解らなくはありません。

もし皆さんが経東の立場であったら、果たしてどっちを選ぶでしょうか。

※参考文献:
国史研究会 編『国史叢書 土佐物語 二 四国軍記』国史研究会、1914年9月

 

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