羽振りのよい時は鬱陶しいくらいすり寄ってくるくせに、ひとたび運が尽きたとなれば、たちまち手のひらを返して恥じない輩の、まぁ実に多いことでしょうか。
まぁ人間そんなものだからこそ、忠義とか誠意なんてものが声高に叫ばれ、最後の最後まで裏切らない者が高く評価されるのですが……。
今回はそんな一人、九州が誇る戦国武将・高橋紹運(たかはし じょううん)のエピソードを紹介したいと思います。
衰運の大友家を必死に支える
髙橋紹運は天文17年(1548年)、豊後国(現:大分県)の戦国武将・吉弘鑑理(よしひろ あきまさ)の次男として生まれました。
初名は孫七郎(まごしちろう)。元服して鎮理(しげまさ)と改名、13歳で初陣を飾って以来、大友義鎮(おおとも よししげ。大友宗麟)の部将として数々の武功を立てます(紹運は出家後の名前です)。
しかし、大友家は薩摩国(現:鹿児島県)の島津義久(しまづ よしひさ)に敗れてより衰運はなはだしく、多くの家臣が島津に寝返ってしまいました。
「もう大友は落ち目だ。今の内に島津へ味方して、少しでも恩を売っておこう!」
「時代の流れに乗り遅れて、後から悔やんだって遅いからな!」
とまぁそんな具合に次々と去っていく連中を尻目に、紹運はあくまでも大友家への忠義を貫く姿勢を崩しませんでした。
「行きたければ行くがよい。他家は知らず、たとえ最後の一人になろうが、わしは忠義をまっとうするまでのこと」
古今東西、目先の利益や一時の命を惜しんで主君を裏切った者が、長く栄えた例しはありません。ならば死を恐れず後世に残る名を惜しんでこそ武士というもの。
かくして島津の魔手が迫る天正14年(1586年)7月12日、紹運は763名の兵を率いて最前線の岩屋城(現:福岡県太宰府市)に立て籠もり、島津の軍勢2万を迎え撃つのでした。