関ヶ原の戦いで敗れた宇喜多秀家が誰よりも長生きできたのは、島流しのお陰?:2ページ目
長生きの秘訣は八丈島のアシタバ?
極貧生活の中で秀家が食べていたのは、八丈島の名物・アシタバ(別名:八丈草、長寿草)。
漢字で「明日葉(明日草、明日穂とも)」と書かれる通り、今日葉を摘んでも、明日には新しい葉が出てくるほど生命力が強く、ビタミンやミネラル、食物繊維など栄養を豊富に含む健康食品として、現代でも重宝されています。
古くは中国大陸の薬草辞典『本草綱目(ほんぞうこうもく。16世紀)』や、江戸時代中期には貝原益軒(かいばら えきけん)の生物学書『大和本草(やまとほんぞう)』でも言及され、万能薬とは言い過ぎにしても、それだけ薬効が知られていました。
葉と茎を食用とし、現代では天麩羅に揚げたり汁物の具にしたり、お茶にしたりなど八丈島の食卓に欠かせない食材となっていますが、アシタバは伊豆大島や太平洋沿岸(概ね房総半島~紀伊半島)にも自生しているそうなので、もし見つけたら試してみたいですね。
早寝早起き、腹八分(?)。特に重労働を課せられるでもなかった(大名だったころの方がよほどハードワークだった筈)秀家の生活は、健康食や八丈島の温暖な気候と相まって、彼に長寿を与えたのかも知れません。
エピローグ
その後、徳川家康が亡くなった元和2年(1616年)、島流し生活も10年に及んだため、秀家は罪を赦され、前田利常(としつね。利長の弟で養子)から大名に復帰しないかと打診されます。
「貴殿ほどの逸材が絶海の波濤に朽ちていくのは忍びない。我が所領を10万石お分け申すゆえ、お戻りにならぬか」
しかし秀家はこれを辞退。たとえにっくき家康が死んだと言えども、徳川家に仕えるなんてまっぴら御免という意地か、それとも八丈島での暮らしが意外に快適だった(むしろ大名になんて戻りたくなかった)のかは分かりません。
そして関ヶ原の合戦から半世紀以上の歳月が過ぎた明暦元年(1655)11月20日、秀家は84歳で世を去ったのですが、世は既に江戸幕府の第4代将軍・徳川家綱(いえつな。家康の曾孫)の時代となっていました。
「ケンカってのは最後に立っていた奴の勝ちだ」
※原泰久『キングダム 19』より
かつて激しく天下を争った者たちは敵も味方もほとんど死に絶え、最後の最後まで生き抜いた秀家こそ、戦国乱世の終焉を見届けた真の勝利者だったのかも知れませんね。
※参考文献:
浮田丈男『封じ込められた宇喜多秀家とその一族』文芸社、2001年3月
大西泰正 編『シリーズ・織豊大名の研究3 前田利家・利長』戎光祥出版、2016年8月
永山久夫『武将メシ』宝島社、2013年3月