徹底抗戦の末に切腹。最後まで豊臣秀吉に抗った戦国大名「北条氏政」のプライド【後編】
戦国時代。関東の覇権を握った北条氏は、天下統一を成した豊臣秀吉に最後まで抗い滅亡した。
今回は【前編】に続き、滅亡時に実権を握っていた人物である北条家4代目当主「北条氏政(ほうじょううじまさ)」の生き様を紹介する。
前回の記事
徹底抗戦の末に切腹。最後まで豊臣秀吉に抗った戦国大名「北条氏政」のプライド【前編】
1590年。天下統一を目前に控えた豊臣秀吉は20万の大軍勢で小田原城に迫った。後に「小田原征伐」と呼ばれるこの戦役は、北条氏4代目当主である「北条氏政(ほうじょううじまさ)」との対立が一つの要因と考え…
信長の死
1582年。織田信長は甲斐国の武田氏を滅したことによって、関東での勢力を拡大した。氏政は関東における北条家の領土安堵を信長に願い出ていた。氏政は室町幕府15代将軍足利義昭を伴って上洛し、武田氏を滅した信長の勢いを恐れていたという。
しかし、同年の6月。本能寺で信長が横死すると状況は一変する。氏政は関東を治めていた織田家の家臣滝川一益を神流川の戦いで破ると、同様に侵攻してきた徳川軍と和睦。上野国(現在の群馬県)を手に入れる。
1585年頃には、北条氏の勢力圏は西は伊豆から北は下野国(現在の栃木県)常陸まで240万石に及んだとされ、氏政は北条家の最盛期を作り上げる。
秀吉との対立
景虎の自害以降、敵対関係にあった上杉氏が羽柴秀吉と組むと、北条氏は同盟関係にあった徳川氏と共に秀吉と対立した。
しかし、秀吉は1587年に九州を平定すると、関東と奥羽の諸大名に惣無事令(大名間の私闘を禁じる令)を発令。翌年には徳川氏や毛利氏などの有力大名に臣従を誓わせることに成功し、天下統一の基盤を整えていった。
1588年。秀吉に臣従を迫られた氏政だったが、申し出を拒否し臨戦態勢を取る。徳川家康の説得もあり、一時は上洛を受け入れた氏政だったが、何かと理由をつけ上洛を先延ばしにした。
1590年。業を煮やした秀吉は、諸大名に北条氏討伐の号令を出す。
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