徹底抗戦の末に切腹。最後まで豊臣秀吉に抗った戦国大名「北条氏政」のプライド【後編】:2ページ目
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小田原合戦
同年2月。秀吉は20万以上の兵を従えて北条氏の本拠地である小田原城を目指した。氏政はいずれ秀吉と戦になることを想定していたようで、主力約5万を小田原城に集め、徹底した篭城戦略を取った。
小田原城は広大な堀に守られた難攻不落の城として有名であり、約3ヶ月間に渡って秀吉軍の猛攻に耐えた。しかし膨大な戦力差を前に追い詰められた北条氏は7月に開城し降伏。小田原城を明け渡すこととなった。
最後
1580年に家督を継いで5代目当主となっていた氏直は助命されたが、氏政と弟の氏照及び宿老の松田憲秀・大道寺政繁の4名は、戦の責任を追う形で切腹となった。氏政は7月11日に切腹し果てた。享年53。
氏政は家督を氏直に譲って以降も実質的に実権を握っていた。氏政が秀吉に最後まで抗った明確な理由は定かでないが、すでに臣従していた上杉氏よりも立場が下がることを懸念したとする説や、中央政権からの独立志向が高い東国武士の資質によるものだとする説など、様々な理由が推察されている。
最終的には北条家滅亡の原因を作ってしまった氏政だが、北条氏勢力圏の最盛期を築くなど、53年の人生において絶頂とどん底の両方を味わった戦国武将といえるだろう。
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