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読めたらスゴイ!越後国の難読地名が苗字となった戦国武将・五十公野信宗のエピソード

読めたらスゴイ!越後国の難読地名が苗字となった戦国武将・五十公野信宗のエピソード

御館の乱で活躍するも、恩賞の少なさに謀叛を起こす

道如斎の武勇が発揮されたのは、天正六1578年に没した謙信の跡目争いである御館(みたて)の乱

実子のいなかった謙信の養子である上杉景虎(かげとら)と上杉景勝(かげかつ)の争いでは、義兄・治長に従って景勝に加勢。

景虎に味方した同族の加地秀綱(かじ ひでつな)が守る加地城(現:新潟県新発田市)を攻略して秀綱を捕らえ、また三条城(現:新潟県三条市)の神余隼人佑親綱(かなまり はやとのすけちかつな)を討ち取る武勲を上げました。

他にも、越後国の混乱に乗じて東から侵攻してきた蘆名盛氏(あしな もりうじ)や伊達輝宗(だて てるむね)の軍勢を撃退するなど、景勝の勝利に大きく貢献します。

「これほどの働きなれば、さぞや重き恩賞に与れようぞ!」

果たして上杉家の跡目はめでたく景勝が継ぐこととなり、論功行賞の沙汰を待っていた天正八1580年、治長の長兄である新発田長敦(しばた ながあつ)が急死すると、治長は五十公野の家督を道如齋に譲って生家に戻り、新発田重家(しげいえ)と称します。

これによって道如齋は五十公野信宗と改名、五十公野城(現:新潟県新発田市)の主となったのでした。

しかし天正九1581年、論功行賞の沙汰を下された重家は、恩賞が「新発田の家督相続を認める」だけというほぼタダ働きの結果に愕然。亡き兄・長敦や信宗の武勲など、無きに等しい扱いです。

「……ふざけるな!いったい誰のお陰で上杉の家督を継げたと思っているのだ!」

主君への奉公は御恩あればこそ……恩賞に不満があれば謀叛を起こすのが乱世の習い。さっそく景勝に叛旗を翻した重家は、信宗や降伏した秀綱など一族をはじめ、景勝に不満を持つ国人衆を集めて新潟津(現:新潟県新潟市)を奪取。

当地に新潟城を築いたとされ(遺構は未発見)、まだ不安定な景勝政権に対して、北から圧力を加え続けるのでした。

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