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アラ還女性が「いざ鎌倉!」息子への愛情と遺産相続の執念を詠み綴った「十六夜日記」

アラ還女性が「いざ鎌倉!」息子への愛情と遺産相続の執念を詠み綴った「十六夜日記」:2ページ目

アラ還だって気にしない、息子のためなら「いざ鎌倉」!

阿仏尼は鎌倉時代前期の貞応元1222年ごろ、桓武平氏の流れをくむ奥山度繁(おくやま のりしげ)の娘として生まれました。幼少の頃から安嘉門院(あんかもんいん。邦子内親王、高倉天皇の孫)にお仕えしたことから、利発な子だったと見られます。

10代で初恋を経験して宮中の一隅を彩ったそうですが、あえなく失恋。そのショックから出家して阿仏尼と称します。随分と思い切った性格だったようです。

しかし転んでもただでは起きず、失恋エピソードを日記にまとめたものが後世『うたたね』として伝わっています。

また、出家しても世俗との交流は盛んに続け、三十路ごろに藤原為家の側室として嫁ぎますが、それまでの十年余りの間にも、何かしら恋愛エピソードが隠されていそうです。

ともあれ夫婦生活はそれなりに円満で、阿仏尼は冷泉為相らを生みますが、夫・為家が高齢になると、そろそろ遺産相続が気になります。

「あなた、為相に播磨国細川荘(現:兵庫県三木市)の領地を……」

「……お前の望みは叶えてやりたいが、あそこは既に為氏(正室の子)へ譲ると言ってしまったからなぁ……」

一度はそう断った為家でしたが、阿仏尼の度重なる懇願に心が揺らぎ、ついに臨終を前に「やはり、細川荘は為相に……」と遺言。

ついに念願叶った阿仏尼ですが、京都における公家法では「悔い返し(※クーリングオフの一種)」は認められず、細川荘は当初の通り為氏のものとされました。

しかし納得いかない阿仏尼は、悔い返しが認められる武家法での判決を求めて、鎌倉幕府に訴え出る旅路へと踏み出したのでした。

この時、阿仏尼は60歳前後のいわば「アラ還(Around還暦)」。当時の平均寿命が25歳前後と考えれば非常に高齢であり、いくら愛する息子のためとは言え、恐るべき執念ですね。

3ページ目 母の愛情を「時雨」に詠む

 

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