【逃げ若の史実】わずか20日の鎌倉奪還!北条時行「奇跡の逆転劇」が足利尊氏を“暴挙”へと追い詰める
『逃げ上手の若君』には、鎌倉末期や南北朝時代を中心とした歴史的な出来事が数多く登場します。
中先代の乱もその1つです。
その中心人物となったのが、北条高時の遺児・北条時行と、それを擁立した諏訪頼重でした。
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による建武政権が成立。しかし旧北条氏の勢力はまだ諸国に残存していました。
信濃では、北条得宗家と深い繋がり持つ諏訪氏らが依然として大きな力を持ち、挙兵の機会を伺っていたのです。
そして来るべき時、時行と頼重は挙兵。その活動は東国の秩序を大きく変え、ついには時代を変える転換点となります。
中先代の乱は日本のその後にどう関わり、人々の思惑がどう絡んでいったのでしょうか。
中先代の乱について見ていきましょう。
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鎌倉幕府滅亡後の信濃――北条時行を擁した諏訪氏の蜂起
元弘3(1333)年、御家人・新田義貞が鎌倉を攻略。北条氏一族は東勝寺において自害に及び、ここに鎌倉幕府は滅亡します。
しかし得宗家・北条高時の遺児・北条時行は生存。御内人である諏訪頼重によって、信濃国に匿われて成長します。
鎌倉幕府滅亡後、京都では建武政権が樹立。後醍醐天皇を中心とした政治体制が敷かれていました。
しかし新時代の到来後も、諸国では旧北条方の動きが続いています。時行が匿われた信濃も例外ではなく、戦乱に巻き込まれていきます。
建武2(1335)年3月、建武政権側の信濃守護・小笠原貞宗や市河助房らが水内郡の常岩北条で旧北条方勢力と衝突。断続的に戦を続けていました。
そして同年7月13日ごろ、ついに事態は一変します。
諏訪頼重や滋野氏などの在地勢力が、北条時行を擁して挙兵。小笠原貞宗や市河助房らと合戦に及びます。
北条時行らは信濃国の守護所などを攻撃。国司・清原信濃守を自害に追い込んで気勢を上げます。
そして時行方は守護側の抵抗を突破。関東へと出て武蔵国へと進軍しました。
当時の関東は、建武政権の出先機関である関東将軍府が統治。その執権となっていたのが足利直義(尊氏の弟)でした。
7月22日、時行軍は武蔵国へ進入。鎌倉から迎撃に出た女影原や小手指原で敵軍を破ります。
足利直義方では配下の渋川義季や岩松経家が討死。ついには鎌倉を維持できなくなり、西へと落ちていきました。



