【逃げ若の史実】わずか20日の鎌倉奪還!北条時行「奇跡の逆転劇」が足利尊氏を“暴挙”へと追い詰める:2ページ目
ついに時代が動く!鎌倉奪還と二十日間の支配
直義の軍勢を破った時行軍は、やがて鎌倉へと入ります。
建武2(1335)年7月25日ごろ、時行は鎌倉に帰還。さらに寺社領をめぐる争いを処理するなど、支配体制の強化に取り組みます。
鎌倉幕府滅亡から2年後、ついに北条時行が故郷へと返り咲いた瞬間でした。
しかしその幸せな時間に暗雲が立ち込めます。
京都にいた足利尊氏は、後醍醐天皇に自身の征夷大将軍任官を奏上。東国の危機を受けてのものでした。
要求は認められず、尊氏は8月2日に勅許を得ずに独断で出陣。東海道を東へと進んでいきます。
尊氏は弟の直義と合流。遠江や駿河で時行方を次々と破り、8月19日には鎌倉へ入りました。
諏訪頼重親子は勝長寿院で自害。北条時行は鎌倉を脱出して逃亡生活を送ることとなります。
時行による鎌倉支配は、20日ほどの長さでした。
このため時行は後世、「先代」の北条氏と、その後の足利氏との間に位置する「中先代」と呼ばれるようになります。
しかし、この中先代の乱そのものが終結しても争乱は完全には収まりません。
信濃では時行を支持する望月氏ら旧北条方が抵抗。断続的な戦闘が長年にわたって確認されています。
そして尊氏の動きが、その後の建武政権を決定づけました。尊氏は京都への帰還命令を無視。後醍醐天皇はこれを問題視し、建武政権との対立を引き越します。
中先代の乱は、北条氏による一時的な鎌倉奪還で終わった反乱ではありません。
信濃の武士たちが時行のために立ち上がり、建武政権の東国支配が崩れ、さらに足利尊氏が台頭する契機となる戦いでした。
『逃げ上手の若君』では、北条時行が再び鎌倉を目指す大きな転換点として中先代の乱が描かれています。
北条氏の「復活」は20日余りだったものの、その短い戦いは建武政権から南北朝動乱へ向かう流れを加速させる戦乱だったのです。
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