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最終話【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第33話

最終話【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第33話

■文政十年 夏

文政十年の夏が訪れた。

国芳は汗を滲ませながら、一刻以上も同じ姿勢で机に向かっている。

褌一丁の上に、禍々しい模様の褞袍(どてら)を引っ掛けるという奇妙な姿である。

渓斎英泉に仕立ててもらった地獄絵図の褞袍は綿を抜いてもさすがに蒸し暑そうだが、国芳は「仕事の時アこれがいい」と言う。

 

肩ッ先に引っ掛けた細やかな刺繍の入った手ぬぐいは、見る角度やわずかな明度の変化で不思議な模様の変化を見せた。

「師匠、何描いてるんです」

芳雪の薄墨の目が、国芳の顔を覗き込んだ。

「ガキにゃア教えねエ」

国芳は、描いていたものをさっと隠した。

芳雪はああ、と手を叩いた。

「春画ですね」

「違エわ」

「じゃあ、なんです」

国芳は仕方なく描いていたものを取り出した。

「あ、」

花魁だ。

芳雪はそう言って、桜貝のような可愛いくちびるで笑み笑みした。

「どこの花魁です」

「知らねエ」

国芳はそっぽを向いた。

「正月に出すから、描いてるだけだ」

浮世絵師の勝負は暑い夏に始まる。正月に出す摺物は夏に準備しはじめなければ間に合わないのだ。

「へえ。この花魁、綺麗な人だなあ。あ」、

芳雪が何かを思い出したように言った。

「これ、あの日に師匠が持ってた仕掛でしょう」

国芳は煙たそうに目を細め、

「雪、めえはもう、あっち行ってろ」

しっしっと芳雪を追い払った。

「あいな」

茶でも淹れますよ。

芳雪はそう言って手をひらひらさせた。

「あの日」、みつを失ったあの正月の夜から早くも半年以上が過ぎた。

芳雪、本名孝太郎は、その夜に橋の上で出会った少年である。偶然結んだ縁から国芳の弟子となり、一緒に棲むようになった。

齢十四の、美しい少年である。

薄墨の綺麗な目が、みつに少し似ていた。

今、国芳が魂を込めて描いているのは、久堅連「風俗女水滸伝」のうち「九紋龍史進」だ。

一人の花魁が頭には数えきれない簪を差し、黒龍を染め抜いた豪奢な仕掛に身を包み、朝焼けの空に見入るという構図である。

ようやく満足に描き上がったその時、外から声が飛んだ。

「佐吉が邪魔するよ、芳さん」

「あいよ、入エんな」

腰高障子を開いた佐吉は相変わらず身なりが良く、総絞りの浴衣をさらりと流している。その下の肌膚には国芳が絵付けした恐ろしい龍の紋々が息づいているのを、誰が見抜けようか。

佐吉は国芳の傍にどっかと腰かけ、開口一番こう言った。

「今年の玉菊は、紫揃えだってね」。

「ああ」

国芳も風の噂に聞いていた。

今年の吉原遊廓の玉菊灯籠は京町一丁目岡本屋の紫野花魁の早世を悼んで、仲之町の引手茶屋すべてが紫の灯籠を吊るし飾っているのだと。

その話を聞いても、国芳が吉原遊廓に出向く事はなかった。

彼はただ、昼夜も忘れて長屋の机上で花魁を描いた。

「綺麗だねエ」

佐吉は目を細めて紙上の花魁を見つめた。この絵に歌を添えるのは、狂歌師である佐吉の仕事だ。

「茶を淹れました」

芳雪が美しい翡翠色の茶を運んできた。国芳がこだわって手に入れた江戸では珍しい京の宇治茶である。

「ありがとう。アア綺麗な青だ」

一口呑み、

「少し気になってたんだが、芳雪はどんな絵を描くんだい」

佐吉が問うと、国芳は首を振った。

「こいつ、筆を渡すとわっちの絵を寸分違わず写しやがる」

「凄えや、さすが一番弟子。才があるんだねえ」

「才はあるが、聡すぎる。雪、めえはもっと」、

「馬鹿になれ、でしょう。師匠はいつもそればかり」

芳雪は困ったように赤い舌をちろりと出した。

「そうだ。馬鹿でなきゃア人の面白エと思うもんなんざ作れねエ。馬鹿になっちまえば誰もやらねえような事も怖くねエ、」・・・・・・

「そういえば」、

熱く語り始めた国芳を佐吉が遮った。

「さっき、江戸前に大鯨が打ち上がったって。そうそう。おいらアそれを教えに来たンだ」

「何ッ!」

国芳が飛びあがった。

首から下げている掛け守りの鎖が、しゃらんと鳴った。

芳雪も既に立ち上がって出る準備をしている。

「佐吉、それを早く言え。雪!さっさと準備しろ!滅多にねエんだ!急ぎゃがれ!」

「あい、師匠!」

「それとあと、おめえ、」

「矢立と紙でしょう?」

芳雪は袂から筆と草紙を取り出してひらひら振って見せた。

「アア、それだきゃ絶対に忘れんな。じゃあな!佐吉!わっちらアちょいと江戸前に出てくらア!」

三尺帯をキュッと締め直し、師弟が青嵐のように勢いよく陽光の中へ飛び出して行った。

佐吉が慌てて外を覗くと、既に居ない。

振り仰げば夏空が雲一つなく澄み渡って青い。

さて。

部屋に戻った佐吉は、ふいに机上に視線を吸いつけられた。

国芳が夢中で描いていたものがそのまま置かれている。

黒龍の仕掛の花魁が柔和(やわ)らかい表情で新春(はる)の空を見つめていた。

恋する、優しい瞳の花魁だ。

(一体どんな気持ちで、芳さんはこれを・・・・・・。)

傷は決して癒えていない。

彼の中には見えない痕が死ぬまで残るのだろう。

それでも今日のように、江戸に陽光が燦然と輝く限り、

(前に前に、進むしかねえ。)

拗ねても引っ掻いても、結局人というものは明日に向かう事しかできやしないのだから。

そうだよな。・・・・・・

「なア、紫野花魁」。

佐吉が絵に向かって親しみを込めて呼び掛けると、紙の中の花魁が懐かしいくしゃくしゃの笑顔で笑った気がした。

(了)

 

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