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最終話【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第33話:2ページ目
今までに経験のない反響の大きさにほくほく顔の加賀屋吉兵衛は、
「百八人、全部、描いちまうか!」
などと言い出した。
まだ先の事は分からないが、
「いいですよ」
と国芳は答えている。
彼の中には既に次から次へと新しい構想が湧き出していた。水滸伝の豪傑たちが噴水のように頭の中を渦巻き、描いてくれと叫んでいるのだ。どれだけ大規模な企画になろうとも自分は応えられるという自負が、国芳にはある。
金子(かね)も出来た。
加賀屋から支払われる水滸伝の画料に加え、実家の実父母も国芳の成功を喜んでまとまった祝い金を出してくれ、みつを身請けするだけのものは手元に用意された。
更に国芳はみつを迎えるために、父の協力を得てたった一枚の仕掛を染め上げた。三枚の裾にはふき綿をたっぷり詰め、背中一面に豪奢な黒龍を大きく配した見事な花魁の仕掛である。色の見えないみつにもはっきり分かるように、黒の濃淡のみで見事に龍を染めあげ、裾の部分だけ緋色地に花色染めで輪っか模様を配した。
「女版、九紋龍史進だ」
国芳は満足に頷いた。
誰もが振り返る、美しい最後の花魁道中が目に浮かんだ。
みつがようやく、自分のものになる。
そう思うだけで胸が熱くなり、人知れずその仕掛を抱きしめた。
・・・・・・
そうして訪れた文政十年正月二日。
女郎たちの仕事始めの今日、初めてみつと出会ったこの日を選んで、国芳はついに正門から堂々とみつを迎えに行った。
身請け金と豪華な仕掛を抱えて。
はやる心を、抑えかねながら。
・・・・・・
なのに。
それだというのに。
「なんで、めえだけが居ねえんだよ・・・・・・」。
長い長い永遠の夢が、千切れて落ちて、泥々に踏み付けられた。
ぼろぼろと落ちる涙の行き場もない。
みつが、死んだ。
客の子を孕み、無理矢理鬼追い(堕胎)したのち体に力が入らなくなり、床から上がれぬまま衰弱して死んだという。
国芳は、膝からその場に頽(くずお)れた。
・・・・・・
「逝っちまったよ」
年の瀬に、さ。
岡本屋のお内儀が、がらんとしたみつの部屋の中央にへたりと力なく座り、障子窓の外を見ながら言った。
「大切な子だったんだ。あの子の母親もうちの看板女郎でね。腹に子が居着いたと分かった時にゃこっちも慌てたさ。散々堕ろせと説得したのに、母親が『嫌だ産むんだ』と聞かなくてね。十月(とつき)も休んであの子を産んで戻ってきた頃には借金も随分嵩んでたからね、前の倍くらい働くようになった。結局、無理がたたって鳥屋(とや)に就(つ)いちまって哀れな最期さ。借金と幼い紫野だけが残された。孫と思って大切に育てたよ。だからあの子が十二で色盲になった時、どうしてでも守り通してやんなきゃって」
「知ってたのか」
国芳が、ほとんど聞こえないほどの力ない声で訊いた。
「あたしだけはね。あの子は騙せてると思っていたろうけど」
ある時から、外に出るとやたら眩しそうに目を瞬くようになってね。色盲てえなア、陽の光が苦手なんだってね。幸いにしてほとんど外に出なくて良い引っ込み禿(かむろ)だったから、ちょうど良かったんだ。
「大変だったよ。ちょうど化粧を教え始める頃だったからさ。間違わないように何度も教えた。でもやっぱり苦手みたいだったね。そんな具合であの子、化粧っ気もあまりなかったんだ。だから、あの子がいきなり笹色紅(ささいろべに)を試した時はびっくりしたよ。間違って塗ったと思った。紫野が手前から化粧の色を楽しむ事なんて、今までだったら出来るはずもなかったから」。
ねえ、歌川はん。
あんたに出会って、紫野は確かに変わった。
「あの子に色を楽しむ事を教えたのは、あんただったんだね」・・・・・・。
最後はくちびるに紅を差す代わりに床の間に飾っていた紅のような赤い椿を持ってね、腹を痛めて苦しかったろうに安らかな顔で死んでいたよ。
色のないはずの椿が、もしかしたら最後は綺麗な紅に見えたのかもしれない。
お内儀はそう言って国芳に向かって紅椿を差し出して、微笑した。
「死んでいるのに、あの子とても綺麗だった・・・・・・」。
蒼白な国芳は、女の紅のように赤い椿を受け取った。
指が、震えた。
聞けば聞くほど、ぞっとする。
呼吸も上手くいかないほどの孤独と恐怖が国芳を締め付けた。
嫌だ。
嘘だ。
これが現実な筈は、ない。・・・・・・
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