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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第29話:4ページ目
その時だった。
「紫野花魁、日本一!」
見物人の一人が、芝居の大向こうのような声を発してから、手に持っていた紙をばっと掲げた。それに続いて、見物人が次々にそれぞれ手に持った紙をみつに向かって掲げ始めた。
(え・・・・・・?)
色のないみつの視界が、じんわり、色づいてづいてゆく。
自分の歩む道すじに、無数の見物人の手によって掲げられた百にもそれ以上にも見える数多の紙を見て泣きそうになった。
(これが、国芳はんの。・・・・・・)
その一枚一枚が、国芳がみつのために描きあげた作品だったのだ。
白無垢の紫野花魁の歩む道すじを色鮮やかに照らす、百八枚の水滸伝の豪傑。
どれもが、少し前まで稚拙だった国芳の筆とは異なっていた。
国芳は、確かな筆運びで躍動する豪傑の肉体を捉え、恐ろしいほどの緻密さで髪の毛筋と刺青までもを描き込んでいた。
そして様々な濃淡に磨り分けられた墨によって描かれた細やかな線が、行燈の薄明かりに照らされて鮮明になったり消えたりした。
みつは思った。
国芳の目を通して見た浮世は、いつの時もこんなにも眩しかったのだと。
・・・・・・
秋の雪。
八朔の日の花魁の白無垢を雪に例えて、人はそう呼んだ。
今、みつの薄墨の瞳からこぼれる雪の華ような涙が風に攫われて空に舞う。
泣いている、紫野花魁が瞬きもせずに泣いているぞ、と最前で国芳の絵を掲げている遊客たちが嬉しそうに声を上げた。
泣いている、という声を聞きつけて、直吉が振り返らずにそっと言った。
「勝ちやしたね、花魁。・・・・・・」
ふれる英泉の立派な屏風絵よりも、すぐに手に取れる頼りない薄い紙にびっしり濃厚に描き込まれた国芳の絵が確かに江戸の人々の心を動かしたのだと、みつは八文字を踏みながら思った。
岡本屋紫野花魁の名を刻んだ提灯が、厳かに仲之町を進んでゆく。
・・・・・・
引手茶屋の間口に、壁にもたれて腕組みをしている一人の男が見えた。手ぬぐいを被っているために、くちもとしか見えない。
それでもみつには分かった。
「国芳はん」。
みつは直吉にも聞き取れないほど小さく、その名を呼んだ。
「国芳はん」
今度は少し大きく呼んだ。直吉の肩がほんの僅かに動揺したのにも気が付かないほど、みつは夢中でその影をめざして外八文字を踏んだ。
腕組みをしていた男が、ついとあごを上げた。
「おみつ。・・・・・・」
男のくちびるがかすかにそう動き、そしてふっと柔らかい笑みをこぼした。
そして男はふらりと、地面にくずれ落ちた。
「国芳はん!」・・・・・・
みつは直吉の肩から手を離し、三枚歯の高下駄も、たっぷりふきの付いた真っ白な仕掛けも脱ぎ捨てて、ふわりと男の方に飛んだ。
「綺麗だよ、おみつ。白無垢、ほんに綺麗だ」・・・・・・
みつが抱き起こすと、男はそんな事を言った。
どれほどこん詰めて描いたのだろうか、その手は変形したようにたこが膨れ上がり、皮が破け血がこびりついていた。寝食もろくにしていなかったのかひどくやつれて頬はこけ、顔が土色をしていた。
男は上がらない腕でみつを抱きしめようとした。
「国芳はん。ありがとう。ほんに、ありがとう・・・・・・!」
みつの涙に誘われて、国芳の絵を掲げていた多くの見物人も涙を落とした。
引手茶屋の二階の窓に行儀悪く腰掛けて、静かにその様子を見下ろしていた渓斎英泉が、ぼそりと呟いた。
「コリャア、負けちまったな」。・・・・・・
あーしも頑張ったんだがねえ、と英泉はケケケッと妙に愉快そうな笑い声を立てた。
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