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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第29話:2ページ目
八月朔日。
今日、みつはこの白無垢に身を包み、女郎になったその日以来の花魁道中をする。
向かう先は渓斎英泉の待つ引手茶屋だ。
結局、夕刻になっても国芳からの絵は届かなかった。
英泉の不戦勝である。
みつはついに、英泉と契りを結ぶ。
「もし姐さんの白無垢を見たら、あの人は何て言うだろう。喜ぶだろうね」
国芳の事を、美のるがそんなふうに言った。
みつは何も答えずに静かに美のるに微笑みかけ、子どものような細い手で妹の手を握った。
「姐さん」
美のるの目から涙がぽろぽろところげ落ちた。
「なあんで美のるが泣くのさ。笑って。ね。泣き顔じゃ、折角目尻に差した紅が流れちまうよ」
「だって、姐さんが泣かないから。・・・・・・」
駄々っ子のように首を振る美のるの顔を無理やり押さえて目元を袖口で拭ってやると、美のるは泣き笑いになった。それを見たみつは大きく頷いた。
「うん!やっぱり笑った方が可愛い。さ、早く化粧直して着付けを手伝ってつくんな」
そうだね、と美のるは頷いた。
「今日は姐さん、花嫁さんだものね」
あたしも、とびきり綺麗にしなきゃね。
(花嫁、か)。・・・・・・
みつは目をしばしば瞬いた。
自分の事ではないように、遠い響きだ。
花魁だなんだと肩肘張って見せても、女郎には、その言葉は眩しすぎた。
化粧が済み、美のるの手を借りて最後に白無垢に袖を通そうとした時、うわあっ、と廊下から叫び声がして、ドタアンと人の転ぶ音がした。今のは、誰が聞いても遣り手の声だ。
「どうしたの、お姐はん」
みつと美のるが慌てて襖を開くと、
「ふふふ」
「うふふっ」
ひっくり返った遣り手の傍で、禿(かむろ)たちが口もとを袂で覆って楽しそうに笑っていた。全員みつが仕立てた揃いの白い袷を着て、八人寄り集まるとたまらなく可愛らしい。
「お姐はん!」
みつが慌てて遣り手を抱き起こした。
「何があったの?」
「くちびるが、くちびるが!」
遣り手が子どもたちを指差して、わなわなと身体を震わせた。
「くちびる?」
みつが子どものくちびるに目を遣ると、
「あっ!」
にこにこ笑う禿たちの下くちびるという下くちびる全てがてらてら濃く光っていた。
「真似したのね!」
そういえば夏に、子どもたちに幾つか紅猪口(べにちょこ)を与えたのを忘れていた。
「ふふふっ」
「アハハ!」
子どもたちは無邪気に笑った。
立ち上がった遣り手が頭から煙が出そうなほど怒っているのもお構い無しで、
「花魁と、お揃い!」
「花魁を手本にしただけでありんす」
と口々に言った。
「ごめんなさい、お姐はん。あたしの所為だわ」
みつは微笑(わら)って謝った。遣り手には申し訳ないと思うものの、道中を前にいつになくはしゃいでいる子どもたちを見ると、みつは微笑みをこぼさずには居られなかった。
怒り狂う遣り手の声を聞きつけて、背後の廻し部屋から妹女郎たちが出て来、同時に一階からお内儀も上がってきた。
「何々、どうしたの」
そう言って近づいてきた妹女郎たちの下くちびるも、てらてらと光っている。
「おめえらもかい!」
遣り手はひっくり返った。
「え、何が?」
「そのくちびる!なんだね、流行ってんのかい⁉」
「下くちびるだけ濃くして玉虫色に光らせるの、紫野姐さんがやっていたのが粋だったから真似したんだ」
「娑婆じゃア、笹色紅とかいうんだって」
若い女郎たちが子どもよりも喧(やかま)しく話すので、遣り手もついに怒る気をなくして、
「そうかい、そうかい!そうまで言うならもう、良いよ!おめえら、そのくちびるで紫野にあやかって、たあんと稼いでくるんだよ!今日は八朔だからね!」
「無理だよ、くちびるのかたちが紫野姐さんとは全然違げえもの!」
いつもお茶っ挽きの妹女郎がからりと明るく笑って言い返したために、皆が頷いて大笑いした。
驚いた事に、遣り手ですら噴き出しそうになったのか、必死に堪えて口を歪ませていた。
岡本屋で、大人も子どもも寄り集まってこんなに笑い声が響いたのは、みつが知る限り、初めての出来事であった。
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