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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第29話:3ページ目
(ここも、良い方に変わりつつあるのかもしれない)・・・・・・
否、むしろ変わったのは、この吉原を見つめるみつの眼差しかもしれない。
不思議と、国芳を恨む気持ちは湧かなかった。
みつは、いつか吉原中がこんな風に笑顔に溢れる日が来ればいいと、はじめてそんな事を思った。そして、みつの知らない吉原の外の江戸の町も。そこには国芳が生きている。
(これで、良かったのだ)
改めて神聖な白無垢に袖を通した時、みつは天に祈るように瞼をそっと閉じた。
(何があっても、どんなに世が変わっても、人の胸の内に、希望という灯は燈り続けるように)
そのためにこそ、みつは吉原遊廓に生き、国芳は娑婆の世に生きる。
みつは吉原花魁として、国芳は浮世絵師としてこの江戸のどこか別々の場所で人の胸の内に灯を灯し続ける。
それでいい。
二人は、永遠に同じ方向を向いて生きてゆける。
美のるがまた静かにはらはら涙を落としているのを、みつは見ない振りした。
「花魁、こいつあ魂消(たまげ)た。俺が知っているあのお転婆は、一体エ誰だったんでしょうね」
道中で肩貸しを務める若い衆の直吉が、みつの前に現れて憎まれ口を叩いたが、口とは裏腹に頬はほのぼのと桃に染まり、自分が肩を貸す紫野花魁にうっとりと見惚れている。
直吉自身も頭には吉原被り、白地を半分紺に染め抜いた浴衣をすらりと着流し、腰先に帯をきゅっと締めた姿がひどく様になっていて、新造たちが騒いだ。いよいよ花魁の花嫁道中という雰囲気が、岡本屋全体が高揚させている。
・・・・・・
「ねえ、お母はん」。
高さ六寸の三枚歯に足を通し、岡本屋の土間を出る直前、みつは見送るお内儀に話しかけた。
「何だい」
「お父はんと一緒になる前、お働きしていた頃、本気で男の人に惚れちゃった事、ある?」
お内儀がまあるい頬でふっと柔らかく笑った。
「あるさ、何度も」
お内儀も、元は女郎である。こっそりそう言った後、遠い目をした。
「間夫がなければ女郎は闇、ってね。何度も何度も裏切られて傷ついた。それでも懲りずに、今もまだこんなところに居る。可笑しいね」
(今の旦那より、もっと惚れた人が居たんだろうか。・・・・・・)
女郎と一緒になるという約束を律儀に守る男など、噺家の作った調子のいい嘘だ。その事は、お内儀が一番知っている。少し淋しげに笑ったお内儀に、みつは凛として言った。
「ちっとも可笑しくなんかない。お母はんは、立派な人だって、ずっと前から知ってた」
お内儀は思わずほろりとして、みつの頬を淡く撫でた。
「おめえ、綺麗だよ。今まであたしが見てきた、おめえの姐さんたち全部合わせても、一番綺麗」
「ありがとう、お母はん」
みつは薄墨の美しい目で、真っ直ぐお内儀を見つめた。
「なんだかまあ、おめえ、ほんに嫁に行くみてえだねえ」
お内儀がしみじみ言うので、みつは笑って重い頭を横に振った。
「大丈夫よ。あたし、ずっとここに、岡本屋に居るわ」
例え渓斎英泉に身請けを申し込まれたとしても、決して承知しない。するはずもない。
「紫野」、
「行っておいで。・・・・・・」
みつはかすかに微笑んで、
「行ってきます」。
空の向こうにまで鳴り渡るシャンシャンという清らかな鈴の音が、夜の帳を下ろした。吉原遊廓の全ての見世に燈が灯り、格子の中には白粉の匂いに身を包んだ色とりどりの女郎が並ぶ。
みつは肩貸しの直吉の肩に、そっと手を置いた。初めて出会った時は棒切れのようだったその肩はいつのまにか、花魁をも支える頼もしい肩になっている。その首筋に、みつは一言、声を掛けた。
「直坊、行こう」。・・・・・・
「紫野花魁、御成アりイ」
岡本屋の提灯を提げた金棒引きの男衆がゆっくり、金棒を鳴らしながら歩き始めた。
京町一丁目岡本屋、紫野花魁の一世一代の道中がようやく、始まる。
岡本屋ののれんをくぐるととんでもない数の見物人が押し合いへし合い、紫野花魁の道中を見に押しかけていた。
お内儀手ずから仕込まれた外八文字を踏んで京町一丁目の木戸門をくぐり、並んだ行燈の灯がおぼろに霞む仲之町に出る。
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