15歳にして「悪(にく)らしいほど強い武士!」となった鎌倉悪源太こと源義平の武勇伝(上):2ページ目
「鎌倉を守っているのは、まだ元服(成人)して間もない小僧っ子の義平。やっちまうなら今がチャンスだぜ!」
……と思ったかどうだか、そんな動きはとっくにお見通しの義平は、京都にいる父と連携しながら、武蔵国司をはじめ、武蔵国内に割拠する豪族たちに根回しを始めます。
叔父の義賢はともかく、秩父氏は武蔵国で強い影響力を持っているため、真っ向から敵に回したら何かと厄介です。
そこで、既に義賢に懐柔されてしまった者は仕方がないとしても、まだ息のかかっていない者たちに中立を保つよう、つまり「今度の喧嘩、手出し無用でよろしく」と頼んだのです。
かくして根回しもすんで準備万端、義平は少数精鋭で武蔵国・大蔵(おおくら。現:埼玉県比企郡嵐山町)にある義賢の館へ奇襲をかけます。
「野郎ども!叔父貴たぁ言え親父の敵じゃ!遠慮は要らねぇ、やっちまえ!」
一気呵成に殴り込み、数倍いたともいわれる敵の軍勢を蹴散らし、見事に義賢や秩父重隆(ちちぶ の しげたか)らの首級を上げました。
以来、義平の武勇は東国に知れ渡り「鎌倉悪源太」と恐れられたそうです。
これが後世に伝わる「大蔵合戦」、翌年に勃発する保元の乱(保元元1156年)の前哨戦とも言われ、坂東における義朝らの勢力が盤石になると同時に、為義との関係は修復不能になり、やがて悲劇的な結末を迎えるのでした。