15歳にして「悪(にく)らしいほど強い武士!」となった鎌倉悪源太こと源義平の武勇伝(上):3ページ目
もみ消し切れぬ争いの火種、立ち込める暗雲
ところで、当時いくら世が乱れていたと言っても、朝廷の許可=天皇陛下の勅(ちょく。命令)なく勝手に戦争すること(私軍)は禁止されていました。
今回の「大蔵合戦」は義平の「やられる前にやっちまえ」という動機がきっかけであり、当然そんなものが正当な理由として認められるはずもなく、本来であれば義平は処罰を受けなければなりません。
しかし、ここで京都にいた父・義朝による武蔵国司への根回しが効いたのでした。
国司(こくし/くにのつかさ)とはその国の支配者ですが、多くの場合は代理を派遣し、本人は京都にいました。
武蔵国の場合も同様で、京都にいた武蔵国司の藤原信頼(ふじわら の のぶより)に頼んで、今回の件をもみ消してもらったのでした。
そんな訳で、とりあえず一件落着……とはなりました。しかし、この藤原信頼とのつき合いは、やがて身を滅ぼすきっかけとなるのですが…
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