大河『逆賊の幕臣』失脚、復帰、幕府崩壊…小栗忠順(松坂桃李)と激動の幕末を生きた浅野氏祐の生涯:2ページ目
横須賀製鉄所の建設に尽力
しばらく無聊の日々を過ごしていた氏祐ですが、元治元年(1864年)9月に製鉄所御用掛として政界復帰を果たします。
ここで氏祐は小栗忠順や栗本鋤雲(くりもと じょうん)らと出会い、横須賀製鉄所の建設に向けて用地選定や技術折衝などに奔走しました。
合わせて幕府陸軍を改革するため、フランス軍との協議にも同席しています。
その実績を買われてか慶応元年(1865年)5月には陸軍奉行並(次官)となり、翌慶応2年(1866年)9月には再び外国奉行としてフランス駐在を命じられました。
しかし翌10月になってフランス行きを向山一履(むこうやま かずふみ)と交代します。氏祐が向山に押しつけたのか、あるいは向山の方が適任とされたのでしょうか。
そのまま国内に留まった氏祐は勘定奉行となり、翌慶応3年(1867年)3月には陸軍奉行並を兼任。翌4月には若年寄並(のち若年寄)と陸軍奉行を兼務してフランス軍事顧問団との折衝に当たりました。
実に目まぐるしい人事異動ですが、これにはどういう意味があるのでしょうか。
戊辰戦争から明治維新後
明けて慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が始まると、氏祐は歩兵奉行の向井豊前守(むかい ぶぜんのかみ)やフランス軍事顧問シャノワンらと共に軍艦・順動丸に乗り組み、大坂へ向かいました。
新政府軍との戦いで前線指揮を執っていた徳川慶喜に江戸の様子を伝えるためですが、大坂に到着すると、慶喜は今まさに江戸へ逃げ帰ろうとしています。
氏祐らは慶喜に従って江戸へトンボ返りし、2月12日に慶喜が江戸城を去って上野寛永寺で謹慎すると、氏祐もこれに従いました。
4月に慶喜が水戸へ移住すると氏祐も水戸へ従い、5月に慶喜嗣子の徳川家達(いえさと)が静岡藩主に封ぜられると、今度はそちらへ従います。
翌明治2年(1869年)8月には静岡藩政を補佐する権大参事(ごんのだいさんじ)となり、明治4年(1871年)に廃藩置県が行われると、県知事に相当する静岡県参事となりました。
2,000石取りの旗本に過ぎなかった自分が、今や藩主にも相当する県参事にまで立身出世を果たした氏祐の胸中はいかばかりでしょうか。
しかし翌明治5年(1872年)7月には県参事を辞職し、これが政界からの引退となります。
やがて明治23年(1890年)に旧主である徳川公爵家に家令として仕え、明治28年(1895年)まで奉公しました。
そして明治33年(1900年)1月8日に67歳で世を去ったということです。
終わりに
今回は幕末から明治時代に活躍した浅野氏祐の生涯をたどってきました。
紆余曲折ありながら、旗本から静岡県参事にまで立身出世を果たせたのは、運と能力と努力のなせる業だったと言えるでしょう。
小栗忠順とは横須賀製鉄所の建設で深く関与するので、大河ドラマ「逆賊の幕臣」では、その辺りの時期に注目です。
他にもこの時代には多くの人物が活躍しているので、また改めて紹介したいと思います。どうぞおつき合いください!
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※参考文献:
- 田村貞雄『徳川慶喜と幕臣たち』静岡新聞社、1998年5月
- 村上泰賢 編『小栗忠順のすべて』新人物往来社、2008年3月




