【豊臣兄弟!】秀吉・秀長の“怒涛の接待”が解いた家康の警戒…後の関ヶ原へと繋がる、家康上洛の皮肉な運命:3ページ目
大坂城で見せた秀吉の度量と、家康が選んだ道
翌日、家康は大坂城に登城します。このとき家康は、約3千人の家来を連れて大坂城へ入ったと『多聞院日記』には記されています。
前夜、豊臣兄弟からこの上ない饗宴を受けたにもかかわらず、家康主従がまだ警戒の念を解いていなかったことが伺えますよね。
さて、これに対して秀吉はどうしたでしょうか。『東武談叢』によれば、大坂城の本丸御殿の玄関まで自ら出迎え、ここでも家康の手を取って御殿に入っていったと書かれています。
また、この出迎えには、家康との交渉の仲介役を果たした織田信雄(山脇辰哉)も同道するという念の入れようでした。つまり、よく見知った信雄がいることで、家康の警戒心を和らげようとしたわけです。
そして注目すべきは、庭にいた家康の家来をみな本丸に招き入れ、逆に秀吉の家臣は、わざと本丸の外に待機させていたという点です。
このようなことが書かれた『東武談叢』は、確かな成立年も著者も不明で、史料としての信頼性は決して高くありません。ただし、江戸時代に秀吉と家康の関係がどのように認識されていたかを、伺い知ることはできます。
つまり秀吉は大坂城を武装解除し、いまだ緊張状態にある徳川勢を迎え入れたのです。これは、天下人・秀吉の度量の大きさを表すエピソードであると同時に、家康上洛時の緊張した情勢を今に伝える話として、貴重なものと考えてもよいのではないでしょうか。
この後、家康は秀吉に謁見し、豊臣家に臣従することを誓います。そして秀吉と家康は親しく茶道具などを見物し、千利休(吉岡秀隆)の点前で茶を楽しみ、天守に上がったと『東武談叢』は伝えています。
そうです、『豊臣兄弟!』で描かれた、大坂城の天守で秀吉と秀長が語り合う場面には、家康も居合わせていたことになるのです。
ここにおいて家康は、娘を嫁がせて縁戚関係にあった北条氏との関係を事実上断ち、秀吉とともに歩んでいく道を選びます。
この4年後、小田原征伐によって秀吉は天下統一を果たします。ただそれは、ドラマでも家康が「あ奴らよりも長生きをして天下をとる」と語ったように、十年後の関ケ原、大坂の陣を経て豊臣家滅亡に繋がっていくのです。
このように、豊臣兄弟のもてなしによって結ばれた主従関係は、決して永遠のものではありませんでした。そしてこの上洛は、後の天下の行方を考えるうえでも、実に重要な出来事だったのです。
第41回「家康の野望」に関しては下記記事でも紹介しています。



