【豊臣兄弟!】妹に続き母・なかまで徳川の人質に…秀吉に最大の打撃を与えた大政所・史実の哀しき最期:4ページ目
母の死に間に合わなかった秀吉
結局、大政所は家康の三河国岡崎城に遣わされ、娘と再会。滞在は一月ほどでした。
翌年天正15年(1587)に聚楽第が完成。秀吉とともに居を移しますが、しばらくして大阪に戻ります。
そして、天正16年頃から病気がちとなり、天正18年(1590)に娘・あさひが亡くなり、自身の病状も悪化。
大政所は、「紫野の地に寺を建立、予め墳墓の地を用意して欲しい」と秀吉に頼んだそうです。
その後、一時的に回復して秀吉も喜んだそうですが、天正20年(1592)、大政所は再び病の床に臥してしまいました。
そのとき、関白だった豊臣秀次は秀吉への報告をとまどうものの、重篤な状態になったために報告。
秀吉は慌てて駆けつけるも間に合いませんでした。なかは、聚楽第にて77歳の生涯を終えたのでした。
手厚く哀悼の意を示した記録が
秀吉は、母の死を知らされ、あまりの衝撃にその場で卒倒した……という逸話があります。
この話は、一次史料には見当たらず、後世の伝承や二次的な叙述で広まった可能性が高いと推察されています。
史実での秀吉は、8月4日に聖護院門跡・道澄を名代として高野山に遣わし、剃髪寺(のちの青巌寺)を創立。
高野山を滅亡の危機から救った僧・木食応其(もくじきおうご)を開基とし、1万石を寄進しました。
そして、8月6日に大徳寺で法要を行い、翌日蓮台野で荼毘に付しています。さらに、後陽成天皇からは准三后が追贈されました。
これらの動きをみると、秀吉の母に対する強い哀悼を感じます。
「お天道様」は、母・姉妹・妻だったのかも
ドラマでは、「あんたらはお天道様のようにおなり!」……と、兄弟の背中を押した母。
けれど、その「お天道様=太閤」になるまで、豊臣兄弟をずっと暖かい陽光で照らし続けてきてくれたのは、その母、姉、妹、そして正室・寧々だったのでは。
けれど皆、兄弟の政略のために辛い犠牲を払い涙を流してきました。
まだ足軽だった頃、「皆を喜ばしたい。ありがとう藤吉郎」と言ってもらいたい。と語っていた秀吉。
そして、「万民(民)を豊かにする」意味で姓を『豊臣』とし、家臣も家族も皆を豊かにするとも言っていました。
けれど、登り詰めていく過程で、いつのまにか「大切にする」のは家族ではなく『家』になっていったようです。
最後に…
これから、徐々に暴走していく秀吉や兄弟の亀裂、茶々との間にできた短命だった息子、甥・秀嗣との関係、そして秀長の病と死まで、どのように描かれていくのでしょうか。
大政所が、娘・あさひ、息子・秀長をしっかりと見送る最期が描かれるのかもしれませんね。
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参考:
・「文化庁」伏見稲荷大社VR
・大政所と北政所 (戎光祥選書ソレイユ 第8巻)河内将芳 著




