【豊臣兄弟!】妹に続き母・なかまで徳川の人質に…秀吉に最大の打撃を与えた大政所・史実の哀しき最期:2ページ目
「全肯定」してくれる母あっての兄弟
「豊臣兄弟!」では、兄弟がピンチに陥ったり自信をなくしたりしたときに、全肯定の言葉をかけて背中を押していたなか。
長浜城主となり大名になり家臣も増え、「うまくできるかのぉ」と不安にかられていた秀吉に、「あんたならできる」と声をかけていました。
『あのころ、“あんたらがいて欲しかった”と思うたような、お大名になりんさい』という言葉は名言でした。
印象深かったのは、秀吉が城に呼んだ商人が、「豊臣家は百姓あがりだから」と安物を売りつける悪徳商人だったときのこと。
安物の反物で打ち掛けを羽織り、「どうじゃ!」と自慢する母でした。
「まったく安物がよう似合っておるわ」と笑う兄弟でしたが、なかにしれば、息子が出世して買ってくれた反物。
それが、上等なものだろうが安物だろうが関係なかったでしょう。
唯一無二の贈り物として喜ぶ母の存在は、兄弟にとっては照れ臭くもあり、うれしくもあり、いざとなったら頼れる存在であることがうかがえるシーンでした。
母は精神的な支えだった秀吉
実際には、大政所と秀吉・秀長の兄弟が、ドラマのように密に仲の良い関係だったかについての詳細な記録はないようです。
けれども、夫が亡くなった後に秀吉は母を引き取り、長浜城主になると、母と寧々(北政所)と一緒に暮らし、秀吉は終生、母を身近に置いて大事にしたと伝わります。
また、寧々との嫁姑関係は「実の親子のように親密」だったとも。
天正10年(1582)本能寺の変後、長浜城が明智方に攻められた際、大政所とねねは一緒に伊吹山麓の大吉寺へ避難。この行動は、二人の信頼関係の深さを示しているようです。
大坂城築城後、なかは大坂へ移り、天正13年(1585)に秀吉が関白になると、破格の従一位に叙され「大政所」の号を与えられました。
以後も秀吉の近くで生活した大政所。母が病気がちになると秀吉は全国の寺社に大規模な祈祷を命じるほど心配します。
たとえば、京都の『伏見稲荷の楼門』は、秀吉が母の病気平癒を祈願し平癒したお礼に建てられたものだそうです。
その折の「どうか母の命を三年、もし無理なら二年、それも叶わなければせめて三十日でもいいから存えて下さい。成就したら一万石を奉納します」という願文が当社に残されています。(「文化庁」伏見稲荷大社VR)
これらの事実は、秀吉が母を精神的な支えとしていたことを裏付けていると思います。
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