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【豊臣兄弟!】妹に続き母・なかまで徳川の人質に…秀吉に最大の打撃を与えた大政所・史実の哀しき最期

【豊臣兄弟!】妹に続き母・なかまで徳川の人質に…秀吉に最大の打撃を与えた大政所・史実の哀しき最期:3ページ目

強力な交渉の切り札「母を差し出す」

史実でもなかは、精神的に息子を支えただけではなく、政治の矢面に立つこともありました。

一番有名なのは、家康臣従のための人質的役割を果たしたことでしょう。

天正14年(1586年)、あさひを嫁がせた後も家康が上洛を渋ったため、秀吉は母・大政所を「朝日姫の見舞い」を名目に岡崎へ送りました。事実上の人質で、家康の安全を保証する担保でした。

このとき、大政所がどう受けとめたかを記した手紙などの記録は残っていないようです。

けれども、この頃は70歳を過ぎていました。事情は理解していたと思えます。

家康が従わない状況の中、「あさひの見舞い」と称して家康の城に出向かされるのですから、自身が「人質」であることは察していたのではないでしょうか。(もちろん、44歳という年齢で嫁いだ娘が心配で、顔を見たかったという思いも。)

血縁が極端に少ない秀吉には「駒」として差し出せる人は、妹を差し出した以上は母しかいませんでした。

かなり強力な交渉の切り札とはなったようですが……。

大政所を焼き殺すつもり!?だった逸話

岡崎城代の本多重次は、家康上洛の人質として岡崎に来た大政所の宿所周辺に、薪を積み「家康に異変があれば火をつける」と備えていた……という逸話があります。

後にそれを知った秀吉は激怒、重次の蟄居につながったとされています。

ただ、この話は『寛政重修諸家譜』(幕府編纂、文化9年完成)など後世の史料に基づくもので同世代に記録ではなく、一次史料による裏付けは乏しいようです。

「鬼作左(おにさくざ)」と呼ばれるほど気性が荒い反面、家康への忠義心も厚かったために、そのような逸話が伝わったのでしょうか。

4ページ目 駆けつけるも間に合わず…秀吉が卒倒した「母・なかの最期」と深い哀悼

 

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