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『豊臣兄弟!』仏罰はすべて引き受ける!秀長の覚悟に震えた第37回…蜂須賀正勝の最高の“ナレ死”に涙

『豊臣兄弟!』仏罰はすべて引き受ける!秀長の覚悟に震えた第37回…蜂須賀正勝の最高の“ナレ死”に涙:3ページ目

秀長の大和国統治

天正13年(1585年)閏8月に大和国へ入った秀長は、検地の他にも各種の施策を展開しています。

まずは国内を跳梁跋扈していた盗賊らを追捕するよう厳命し、領内の治安回復を優先することで民心の掌握を図りました。

あわせて領民たちに対しては、5ヶ条の掟を定めています。これによってシンプルかつ明確な生活規範を示し、順法意識を高めたそうです。

また妙楽寺(現在の談山神社)に立て籠もる僧兵たちの武装解除を進め、後に秀吉が発する刀狩令の先駆けとなりました。

そして本命となる検地では、寺社勢力の利権を切り崩すことになるため、その反発は免れないところです。

しかし特に大きな問題を残さず進められたことから、秀長の政治的手腕と武力的背景がモノを言ったことでしょう。

こういう既得権益に挑みながら、新しい国づくりを進めていく場面を、もっと丁寧に描いてほしいと感じました。

興福寺の僧侶たち

劇中に登場した権別当の兼深(赤星昇一郎)や、俊英(新名基浩)は実在したのでしょうか。

兼深(けんじん)は天文13年(1544年)生まれ、秀長(天文9・1540年生)よりも年下だったのですね。演者さんの影響で、よほど高齢に見えましたが……。

内大臣を務めた広橋兼秀(ひろはし かねひで)の子で、法隆寺の別当に補任されていたことがあるそうです。

俊英(しゅんえい)という僧侶については詳しくわかりませんが、名前をひっくり返した英俊(えいしゅん)という僧侶がおり、興福寺多聞院の院主を務めています。

英俊は戦国時代における畿内の情勢を記録した『多聞院日記』筆者の一人として知られ、秀長の言行についても詳しく書き記しました。

果たして俊英は英俊がモデルなのか、今後も登場する機会があるかもしれませんね。

4ページ目 おてんば姫・末(池端杏慈)の冒険

 

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