『豊臣兄弟!』仏罰はすべて引き受ける!秀長の覚悟に震えた第37回…蜂須賀正勝の最高の“ナレ死”に涙:2ページ目
大和国を召し上げられた筒井定次の憂鬱
秀長が大和国へ国替えされる辞令の直前、筒井定次(貴堂寛之)は養父の筒井順慶(永沼伊久也)から受け継いだ大和国を召し上げられてしまいました。
※順慶は天正12年(1584年)8月11日に36歳で世を去っています。
代わりに伊賀国を与えられたものの、憤懣やるかたなくも逆らえないため、謹んで拝命するよりありません。
大和国は公称44万石、対する伊賀国は12万石ですから、大幅な減俸ではないでしょうか。
ただし定次はこの時、伊賀国のほかに隣の伊勢国に5万石、同じく山城国に2万石の合計20万石を与えられています。
「それでも半分以下ではないか!」と思ってしまいそうですが、実際のところ大和国内にある寺社領や与力領などを除いた純粋な所領は18万石程度でした。つまり今回の国替で、定次は2万石を加増されたと見てよいでしょう。
また伊賀は交通の要衝であり、羽柴政権としては、東国勢力(徳川・北条など)に対する備えとしておさえておかねばなりません。
そこへ定次を配置するということは、秀吉がそれだけ定次を信頼し、高く評価されていたと見ることも可能です。
この後、定次は羽柴の苗字を与えられ、従五位下・伊賀守に叙せられるなど秀吉政権下で活躍したのでした。
興福寺は仏罰で領民たちを脅していた?
劇中では磐覚だけが仏罰を振りかざして領民たちを脅していたように描かれていましたが、果たして実際はどうなのでしょうか。
もちろん令和21世紀の私たちより神仏に対する信仰心は厚かったでしょうが、それだけで縛り続けるのは無理があります。
大和国の領民たちが永く寺社勢力に従属してきたのは、彼らにとってそれが有利だからに他なりません。
例えば大名と寺社に年貢を納めるなら、どちらが得かと言えば、多くの場合は後者でした。平安時代の御厨(みくりや)などはその典型で、寺社に対して年貢を納めれば、現地の領主に対する納税義務は免れるのが通例です。
だから有力者たちはこぞって所領を寺社勢力に寄進し、寺社勢力に寄進した土地は、世俗の権力者にとって手出しの出来ない聖域(租税軽減地)となったのでした。
言ってしまえば寺社勢力と領民たちはグルになっており、持ちつ持たれつだったからこそ、永く寺社勢力が国内を牛耳って来られたのです。
ただ仏罰だけで脅し続けられるほど、戦国時代の農民たちも単純ではなかったでしょう。

