『豊臣兄弟!』秀次(山田涼介)事件が招いた残酷な結末…羽田正親(平埜生成)の非業の死、その真相に迫る
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』。羽柴秀吉(池松壮亮)の関白就任、そして四国・九州征伐を経て天下統一へと、ドラマはますます盛り上がりを見せています。
そんななか、第37回「秀長の国」では、大和郡山に居城を構え、大和大納言となった羽柴秀長(仲野太賀)の今後と大きく関わる人物が登場しました。
その名は、羽田正親(はねだまさちか)。演じるのはNHK朝の連続テレビ小説『風、薫る』でファンが多かった黒川医師こと平埜生成さんです。
公式サイトでは、「秀長の家臣として頭角を現し、家老に列する。築城術に長け、秀長が大和郡山城に入った際には普請に携わり、藤堂高虎と共に内政・軍事で活躍した」と紹介されています。
しかし、この羽田正親は、秀長のもとでその手腕を発揮する一方、秀長の死後には非業の最期を遂げることになる、謎の多い人物でもあります。
今回は、数少ない史料をひも解きながら、羽田正親の生涯を探ってみます。
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謎の多い羽田正親、その前半生とは
羽田正親(平埜生成)の生年ははっきりしていません。また、その名も『武家事紀』や『武功夜話』などでは「刎田六蔵(はねだろくぞう)」と記されています。
生まれは近江国上羽田村で、『武家事紀』によると、1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いでは、秀長の配下として桑山重晴とともに賤ヶ岳砦を守ったとされます。
しかし、正親が史料に初めて登場するのは、1585年(天正13年)5月のことで、「羽田忠兵衛(忠右衛門尉)」という名で確認できます。
この時期、豊臣兄弟は紀州征伐・四国攻めを進めていました。
ですから、正親がいつから秀長に仕えたのかは判然としません。
とはいうものの、その翌月には、秀長与力の白樫左衛門尉に四国従軍を命じる書状を正親が出しており、この頃には秀長の有力家臣の一人となっていたことがうかがえるのです。
そして同年、秀長の大和郡山入部にともない、大和国添下郡に4万8千石を与えられて小泉城主となり、大名に列しています。
ここから1591年(天正19年)1月22日に秀長が亡くなるまで、正親は秀長を助け、多忙な日々を送ることになります。
その様子を、年表にまとめてみましょう。
- 1586年(天正14年)5月……興福寺に対し、秀長の命令を伝える
- 1586年(天正14年)5月……家康上洛にあたり、その取り次ぎを務める
- 1587年(天正15年)8月……秀長が小早川隆景に送った書状の中に、正親が秀長と隆景の仲介をしたことが記される
- 1588年(天正16年)4月……本願寺の下間頼廉に「長門守」の名で書状を出す
- 1588年(天正16年)7月……桑山重晴・藤堂高虎らとともに毛利輝元より進物を贈られる
- 1588年(天正16年)9月……上洛した毛利輝元の大和郡山滞在に際し、正親の屋敷が宿所とされる
- 1588年(天正16年)12月……吉川平助が処刑されると、藤堂高虎とともに熊野山奉行を務める。この年、宇陀松山城主となる
- 1589年(天正17年)2月……秀長から高虎とともに、熊野本宮社の造営を命じられる
- 1589年(天正17年)5月……熊野北山地域に高虎とともに、赦免を保証する証文を出す
- 1589年(天正17年)9月……秀吉らが秀長の病気回復を祈願して薬師寺に花瓶などを奉納した際、正親も奉納を行う
- 1589年(天正17年)12月……家康三男・長丸(後の秀忠)の上洛に際し世話をしたことから、家康から礼を述べられる
- 1590年(天正18年)4月……聚楽第・大政所の屋敷の護衛を命じられる
- 1590年(天正18年)8月……秀吉から高虎らとともに、京都方広寺大仏用の材木を送るように命じられる
この間、秀吉は九州攻め(1586~1587年)、小田原征伐(1590年)を敢行し、天下統一を果たしました。
九州攻めでは、秀長は豊臣軍の実質的な総大将として出陣しているので、正親も従軍していたと考えられます。
一方、小田原征伐には秀長が病気のため出陣できず、大和郡山に留まっていました。そのため、正親も畿内にいたのでしょう。
それはさておき、上記の年表を見ると、あることに気付きます。
それは、徳川家康や本願寺と関わり、毛利輝元や小早川隆景の世話をするなど、正親の交際関係が実に多岐にわたっていることです。さらに、秀吉からも直接指示を受けています。
こうして見ると、羽田正親は単なる武将というよりも、外交や普請、寺社、領国経営など幅広い実務を担う人物だったのではないでしょうか。




