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【豊臣兄弟!】半兵衛(菅田将暉)を号泣させた“あの赤ん坊”が成長!秀長の娘・末(池端杏慈)史実での正体とは?

【豊臣兄弟!】半兵衛(菅田将暉)を号泣させた“あの赤ん坊”が成長!秀長の娘・末(池端杏慈)史実での正体とは?:3ページ目

史実に伝わる秀長の妻と子は

秀長とその正室(史実では慈雲院/慈雲院芳室紹慶)については、冒頭でも述べたように非常に史料が少ないようです。

正室の出自は諸説あります。

ドラマの慶の名前は、高野山奥之院の石塔銘などに「慈雲院芳室紹慶」「芳室慈雲院紹慶大禅定尼」とあり、そこから「慶」ととったそうです。(近年の研究では「慈雲院」が正しいとされます)

秀長の子どもたちは、人数・生母・名前に異同はありますが、近年の説では以下のようになっています。

⚫︎長男・羽柴(木下)与一郎:

慈雲院との間の実子と推定。永禄11年(1568)頃生、天正10年(1582)頃早世(元服後)、死亡した原因などには諸説あるようです。

一次史料では存在の確認が難しいようですが、江戸時代の文献『森家先代実録』『高山公実録』『駒井日記』『多聞院日記』などで存在が伝えられるそうです。

ドラマでは、慶の連子でしたが、初陣で弓矢に射抜かれたことが原因で亡くなり、秀長夫妻に大きな打撃を与えました。

⚫︎長女(名前不詳):

天正15年(1587)頃の生まれで、母は側室・摂取院光秀(光秀尼)とする説が有力のようです。

天正19年に豊臣秀保(三好吉房と豊臣兄弟の姉・ともの子)と4〜5歳で仮の婚儀、文禄3年に正式に結婚しますが、その後の消息・没年・法名などはわかっていません。

⚫︎次女・おきく(大善院):

天正16年(1588)頃の生まれで、秀吉の養女として毛利秀元に嫁ぎ、慶長14年(1609)没しました。

生母は摂取院光秀とする説と、別の「きくの母」(名前不明の側室・妾)とする説があります。

⚫︎養女・岩(智勝院):

那古野氏の娘。与一郎の妻だったが夫が早世した後、秀長・慈雲院の養女になり、のち森忠政と再婚し継室に。忠政との間に2男3女をもうけました。

⚫︎養子・藤堂高吉(千丸):

丹羽長秀の三男で秀長の養子に。与一郎早世後に一時後継候補になるも、のち藤堂高虎の養子になりました。

⚫︎養嗣子・豊臣秀保

姉・ともの三男で、秀長家を継ぐも、文禄4年(1595)17歳頃で早世し、家は断絶しました。

4ページ目 「末」のモデルは長女か次女か

 

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